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生まれてからの信仰教育

kitasendo
ノア函
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親子が神様を中心とした同じ価値観を共有する」ための、2番目の道は、
生まれてからの教育
です。

この教育の核心は、親自身が篤実な信仰生活をして、その姿を子どもに見せるということでしょう。

ノアもアブラハムも並外れた信仰者でしたから、子どもたちも当然、その父親の信仰する姿を見ながら育ったに違いありません。
ところが、どうもその受けとめ方は同じではなかったようです。

ノアはとにかく相当長い期間をかけて巨大な方舟を造り上げました。
その作業を子どもたちがどれほど手伝ったのかは、聖書を読む限り、明確には分かりません。
ただ、洪水が終わった後、天幕の中で裸で寝ていたノアを見たときの次男ハムの振る舞いから推測する限り、心中に父親への反発があったように感じられます。

神様に対するノアの絶対的な信仰には批判の余地がありません。
しかし、日常的な家族との関係はどうだったのでしょうか?

ノアが神様の仕事に没頭するあまり、家族との関係を二の次に回し、なおざりにした部分があったのではないかとも推測できます。
ノアと同じ基準の信仰を持っていなかった家族にしてみれば、ノアの姿は神様だけを愛し、家族は軽んじられていると感じて、寂しさを抱いていたのかも知れません。
それが息子の中で、父親への反感となった可能性は十分に考えられます。

一方、アブラハムも篤実な信仰者でした。
子どもも生まれず、妻を2度まで異国の王に奪われそうになる試練を受けてもなお、神様に従った人です。

彼は事ある度に神様に祈り、山の上に祭壇を設けて、そこで燔祭を捧げたものと思われます。
その祭事には、息子のイサクがいつもついて行きました。
何事でも神様に祈り、神様を中心に生きる父親の姿を、イサクは肌身で感じていたでしょう。

その父親が、ある日極めて深刻な雰囲気になり、何も言わずに息子を連れて、いつもの山に向かいました。
その時、道半ばでイサクは父親の心中を悟ったものと思われます。

そして、
父親の手にかかって祭物になるのなら本望だ
と思ったのです。

あるご夫婦の証を聞いて、深く自省させられたことがあります。

子どもたちが物心ついた頃から、重要な献金をする際にはいつも子どもたちを教会に伴い、家族手をつないで教会長から献金式のお祈りをしていただいてきた、というのです。

たとえ献金によって生活は逼迫するようなことがあったとしても、父母は自分たちの生活以上に神様に捧げることを重要視し、それを感謝している。
その姿を子どもたちに見せておこうと考えたのです。

このようなことは、父母自身が神様のみ旨を本当に心から感謝していないとできないことです。

3人の子どもたちはお互いに仲が良く、父母を尊敬、信頼しているように、私には感じられます。

自分たちが熱心に信仰の道を貫くことも重要であり、価値あることではありますが、おそらくはそれ以上に、
信仰を次の世代に相続させる
ということが、もっと大きな価値を持つことではないかと思います。

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