直感から瞑想へ
小林秀雄のエッセイ集『考えるヒント 』の中に、「季」と題するエッセイがあります。
数学者、岡潔博士のエッセイ「春宵十話」に触発されて書かれたものです。
両思想家とも、私にとっては難解ながらも、どこか似たような魅力を感じるところがあります。
それが何かとは、分明に言えないのですが、おそらくは両氏ともに互いに通じるものを感じられたのでしょう。
両氏の対談集が編まれ、私もそれを興味深く読んだ記憶があります。
「春宵十話」の中で、岡博士は、
「職業にたとえれば、数学に最も近いのは、百姓」
であると書いています。
お百姓は収穫を目的として種を選ぶ。
あとは、その種子が自らの力で育つのを見ている。
数学者もそれと同じで、テーマの種子を選べば、あとはそれが大きくなるのを見ているだけのことだと言うのです。
博士は自身の内面で起こる数学的世界を、専門分野では数式で表すわけですが、一般人にはそれではチンプンカンプンですから、通常の文章で書くしかありません。
文学者である小林氏は、その文章から、数学者の境地を直覚できるのです。
小林氏が直覚するその境地とは、計算計算の抽象的世界ではなく、
「数という種子をまき、眼を閉じて考える純粋な自足した喜びを感じる世界」
です。
この世界は、言い換えれば、まさに
「瞑想」
の世界です。
両氏が互いに相通じるのは、この「瞑想」の世界においてではないかという気がします。
瞑想の世界は、熟練するほど深くなります。
岡博士によると、欧米の数学者は年をとるといい研究ができない人が多いといいます。
しかし博士自身は、老年になればなるほどいいものが書けそうに思えるのです。
若い時の発見は直感により、熟練してからの発見は瞑想による。
瞑想には直感よりも、もっと奥行きの深いものがあるのだろうと、私は想像します。
小林氏も、この瞑想に通じる、文学者としての体験を一つ記しています。
ある時、田舎にいて、極めて抽象的な問題を考え詰めていたことがあった。
季節は、晩春。
あれこれと考えて眠られぬままに、川瀬の音を聞いていると、川岸に並んだ葉桜の姿が、ふいに心に浮かんできた。
日本人は太古に歌集を編み始めて以来、つねに「季」というものを編み込まずにはいられなかった。
それがなぜかということが、「川瀬の音」とともに、突然得心がいった。
これが、小林氏の文学者としての瞑想世界です。
核心的なアイデアというものは、力づくで見つけるものではなく、目を瞑(つむ)って、何も考えなくなった一瞬に、どこからともなく出現するもののようです。
そのとき、このアイデアには「喜び」が伴います。
多分、このようなアイデアは、神様から来るものだからではないかと、私は想像します。
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