栄光の王冠に秘められた茨
栄光の王冠
人を疑えば、苦しみを覚え
人を裁けば、耐え難くなり
人を憎めば、もはや私に存在価値はない
しかし、信じてはだまされ
今宵、手のひらに頭を埋めて、
苦痛を悲しみに震える私
間違っていたのか。
そうだ、私は間違っていた。
だまされても、信じなければ
裏切られても、赦さなければ
私を憎む者までも、ひたむきに愛そう
涙をふいて、微笑んで迎えるのだ
だますことしか知らない者を
裏切っても、悔悟を知らない者を
おお主よ! 愛の痛みよ!
私のこの苦痛に目を留めてください
疼くこの胸に主のみ手を当ててください
底知れぬ苦悩に心臓が張り裂けそうだ
されど、裏切った者らを愛したとき
私は勝利を勝ち取った
もし、あなたも私のように愛するなら
あなたに栄光の王冠を授けよう
この「栄光の王冠(冕旒冠)」という詩は、文鮮明先生が15歳の頃に作られたものだと聞いています。
それが数十年の時を経て、数年前、世界詩人協会の最優秀賞を受賞したという特異な経緯を持つ詩です。
実に底知れぬ苦悩に満ちた詩想です。
文先生が15歳と言えば、早朝祈祷の中で霊的にイエス・キリストと劇的に出会われた頃です。
あの15歳の少年が一体「誰を信じて騙された」のか?
「誰に裏切られた」のか?
「底知れぬ苦痛」とは一体何による苦痛だったのか?
「裏切った者らを愛した」とは、一体どういう行動だったのか?
具体的なことがほとんど分かりません。
ただ、その当時、文先生は15歳の身の上でありながら、私の想像を遥かに超える深刻な立場におられたことだけは確かです。
イエス様の地上での遺業を受け継がなければならないという深刻で切迫した状況。
その遺業とは、この地上に神の国、すなわち地上天国を創建するということでしょうが、その出発の時の苦悩は、
「どのようにして天国を成就するか」
という外的な方法論ではなく、
「裏切る者を、いかに赦すか」
という、極めて内面的な葛藤であったということが推測できます。
メシアの最も内面的で本質的な使命は、この、
「裏切る者を、いかに赦すか」
という点にこそあるのだろうかと思わされます。
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