み言葉による役事としての訓読
今年3月に続き、チャート式原理教室の会議兼研修会に参加してきました。
3月の研修も私にとって目からウロコだったのですが、今回もまた別の衝撃が。
3種類の新しい訓読の方法を伝授されました。
① 全体訓読
② 授受作用訓読
③ 集中訓読
全体訓読とは、参加者全員が輪になって歩きながら訓読するというもの。
歩きながらお経を唱えるというやり方は、仏教にもあるそうです。
じっと座って訓読するのに比べて、歩くリズムと訓読のリズムが連動、共鳴することによって、心が開きやすいのだと、指導講師の説明がありました。
授受作用訓読というのは、これまで教会にはあり得なかったような、かなり風変わりな訓読。
参加者が半分に分かれて両側の壁を背に向き合います。
片方の列の先頭が大声で一節を訓読します。
それ以外のすべての人がその人の読み方や態度など、何でもいいので褒める言葉を連呼します。
読み終えると、その人は向かいの先頭者に大声で続きの訓読を促します。
このようにして、ジグザグに訓読を続けていくのです。
祭りのような、騒然とした訓読です。
集中訓読では、まず15分くらいチャートのテキストを大声で訓読。
その訓読中に一番心に響いた箇所を選び、次の7分間、その部分だけを繰り返し訓読します。
訓読し終わった後、その部分から何を感じたかを証しし合います。
全体祈祷と集中訓読はとても良いと感じましたが、授受作用訓読は私にとってかなり抵抗感がありました。
抵抗感があったのは、私の中の「心の殻」に荒くぶつかったからだろうと思います。
今日の訓読研修全体を通して私が感じたことは、次の2つでした。
① 形のないみ言葉というものを形あるものに形状化することによる感動
無形なる神様は、ご自身そのままでは喜びという刺激がなかったので、形あるものを創造されま
した。
そのとき、形のない「み言葉(ロゴス)」が、形のある被造物として現れたのです。
私たちも心の中にある思いを「ことば」にします。
それも一つの形状化なのですが、その「ことば」を発するときに、「ことば」に合わせて身体を動かすことにより、もう一段階、形状化が発展するのです。
形状化が発展するということは、それだけ刺激の度合いが増すということです。
例えば、歩くという身体の動きが加わるだけでも、心にはじっと座っていたときにはなかった感動が生じることを確かに感じます。
② 動く訓読は、み言葉の役事
清平での役事は大声で聖歌を歌いながら、拍手、按手など、体を動かし続ける役事です。
それを1時間あまり続けることで、次第に無我の境地に入り、神様の心情を感じたり、霊的な体験をしたりします。
大声を出しながら訓読を始めても、最初のうちは雑念が次々に湧いてきます。
それを10分、20分と続けていくうちに、次第に雑念が減り始め、ある一瞬、ふっと神様の心情に触るような気がする時がやって来たりします。
どんなみ言葉を訓読している瞬間にそれが来るかは、自分には全く予想できません。
とても抽象的で硬い内容のみ言葉であっても、その瞬間に来たりします。
それで、み言葉は単なる理論ではないと分かります。
本日の指導講師は最後に、
「原理講論は神様の自叙伝である」
と言われましたが、まさにその中に記されたみ言葉は、神様の真理であると同時に、神様の神霊でもあるのだと思わされました。
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