欠点に集中しない
子どもたちが小さい頃、歯磨きが嫌いで、虫歯がいくつもできました。
このままでは年若くして虫歯だらけになるかも知れないと心配し、おばあちゃんは毎晩、「歯磨きをして寝なさいよ」
と、飽くことなく注意し続けたものです。
ところが、その注意がなかなか功を奏さないものですから、おばあちゃんはひたすら気を揉み、
「どうしてうちの子は歯磨きがこんなに嫌いなのか」
と、ぐちが繰り返されることになっていました。
それから数年が過ぎ、娘が小学校の中学年の頃、ある日突然、一生懸命に歯を磨き始めたのです。
「どうしたんだ?」
と尋ねると、
「友だちから、〇〇ちゃんの歯はちょっと黄色いね、と言われたの」
との答え。
おばあちゃんの長年にわたる小言よりも、友だちのたった一言の方がよほど効果があったのです。
この一件を通して、子どもというのは、良かれと思ってアドバイスしてもあまり聞かないが、本人が「これは、やらなければ」と一旦思えば、何も言わなくてもやり始めるものだということを学びました。
しかし、歯磨き問題は解決したものの、おばあちゃんにとって心配の種は尽きないようです。
服は脱いだら脱ぎっぱなし。
犬の糞のように(喩えがちょっと悪いですが)、脱いだそのままの形で部屋の中に散乱していることがしばしばです。
部屋を移動すると、部屋の電灯が点けっ放し。
風呂から上がると、脱衣場が濡れた足でびしょびしょのまま。
それらすべてが、おばあちゃんの小言の種になっています。
そういうことは確かに困ったものですし、もっと躾が必要かとも思います。
しかし、その小言のゆえに、おばあちゃんは子どもたちからとても敬遠されているのです。
そしておばあちゃんは、
「どうして、私の言うことを一つも聞いてくれないのか」
と、いつも嘆くのです。
私はというと、自分がずぼらなものですから、子どもたちにもあまり注意できません。
時々気がつくと、私も脱いだ服を椅子に投げかけたままになっていたりします。
それで私がすることと言えば、服が脱ぎっぱなしになっているのを見ると、何も言わずにたたんで片付ける。
電灯が点けっ放しになっていると、何も言わずに消しておく。
こんなことではダメかな、とも思ったりしますが、一つ良いことは、子どもたちが私をあまり嫌わないということです。
そのお陰で、私の願いを比較的よく聞いてくれます。
私自身、人の欠点を指摘するのが好きではありません。
できるだけ指摘して、大人になってから困らないようにしてやりたいというのも親心でしょうが、私の目が子どもの欠点に向かうとき、私の意識は「欠点を持つ子ども」という部分に集中することになります。
そのとき、子どもが持つ無限の「長所」から目を背ける結果、子どもへの評価が極めて狭く限定されてしまうと思うのです。
また、
「子どもは親が言ったようには育たないが、したようには育つ」
と言われます。
私が子どもたちの欠点を指摘して育てれば、子どもたちはその欠点を直すように育つのではなく、大人になって自分の子どもたちに同じような小言を言って直そうとする親になるでしょう。
しかしもし、今私が小言を言わず、率先してできることをやろうとすれば、子どもたちは、同じように無言で率先する親になると期待できると思うのです。
今直ぐに効果を期待できる方法ではありませんが、このほうがより賢明であろうと、私は思っています。
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