役割理論で人を見る
近所で思いがけない事件が起こると、犯罪で逮捕された人について、マスコミが必ず近隣の人たちにインタビューします。
すると大抵の人から、
「あんな犯罪を起こすような人には見えなかった」
「道で出会うと愛想よく挨拶してくれていたのに・・・」
などというような決まりきった反応が返ってくるものです。
このようなインタビューを繰り返し流すマスコミは、
「人間というのは見た目では分からない。近所の人にも気をつけろ」
と言いたいのでしょうか?
あるいは、
「普通の人間がいつ犯罪者になるか分からない。あなたも気をつけろ」
と言いたいのでしょうか?
真意は何とも言えませんが、インタビューする側にもされる側にも共通しているのは、
「1人の人間には一つの人格だけがある」
という、固定化された人間観を持っているらしいことです。
哲学の分野に「役割理論」というものがあります。
ある人間を一つの人格だけで説明することはできない、というのが役割理論の基本的な考え方です。
現実の中では、どんな人でも複数の人格、つまり「役割」を演じているのです。
これは言い方を変えれば、人は誰でも、自分が置かれている状況や関わる相手によって、程度の違いこそあれ、様相の違う人格が現れるということです。
外では紳士的で理性的と思われる人が、家に帰ると、家族を感情的によく怒鳴る、ということもあるでしょう。
子どもたちも、家で家族に見せる顔と、学校で友だちに見せる顔とは相当違っていると思われます。
昼間は会社人としての顔を持っていても、自宅に帰った途端に父親の顔になる。
こういうことは普段、誰でもほとんど無意識のうちに行っています。
私たちの中に個人としての「核」のような変わらない部分はあるにしても、外部とのやり取り(授受作用)によって、気持ちも違えば、態度が変わってくるのも、ある意味自然です。
そうであるにも拘らず、私たちは人を見るとき、
「あの人はこういうタイプに違いない」
と、ひとつの人格に固定して見がちではないでしょうか。
「私の夫はこういう人だ。いつまでたっても、夫のあの態度は変わらないだろう」
などとも思って、夫婦関係の改善を諦めてしまったりもします。
しかし、人は「相手」によって変わり得るのだということを、前向きに考えてみてはどうでしょうか。
つまり、私が変われば、それにつれて相手も変わり得る、ということです。
相手がずっと変わらなかったのは、実は私が変わらなかったからなのかも知れません。
犯罪者の近所の人たちのような、固定された人間観を捨てましょう。
人にはいくつもの人格的側面があります。
どんなに厄介に見えても、100%悪だけの人はいません。
嫌な面が見えても、別の面には愛すべき人格もあるはずです。
そのような面も見ることのできる私に変われば(これはまさに神様の見方だと思います)、相手もそれにつれて愛すべき面をより多く見せてくれるようになるのではないでしょうか。
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