人生はつかの間の芝居
文先生のお話に、
「父親と息子は、この世では親子だが、霊界に行けば最も近い兄と弟になる。母親と娘も同様に、霊界に行けば、最も近い姉と妹になる。 それでは親は誰かというと、神様だけがすべての人の親となり、人類はすべて兄弟姉妹となる」
とあります。
初めて聞くと、「本当かな?」と思うような話です。
しかし、神様が人類の親であるというならば、確かにすべての人間は神様の子どもですから、お互い同士は兄弟姉妹となるのが理の当然ではあります。
とするなら、この世において親子があるのはなぜなのでしょうか?
父も息子も、母も娘も、それぞれはみな一つの「役割」だと考えることができます。
男性は妻がいてこそ「夫」と呼ばれ、女性は夫がいてこそ「妻」と呼ばれます。
また子どもがいてこそ、「父」ともなり、「母」ともなります。
つまり、家族の役割は、その相手(対象)がいてこそ、初めて成立するものです。
男性は妻との関係において初めて、「夫の愛」を体験することができます。
子供が生まれてこそ、「父の愛」「母の愛」を体験することができます。
つまり、この役割は、相手との関係を通して、いくつもの質の異なる愛を体験するために、神様から与えられるものではないかと思うのです。
子どもは親の言うとおりにはなかなか振舞ってはくれません。
おむつを替えてやらねばならず、夜昼問わずお乳を飲ませてやらなければなりません。
学校に行くにもお金を出してやらねばならず、思春期ともなれば心配が絶えないでしょう。
しかしそういうことを通して、私たちは親の愛を味わい、人間として成長していけます。
子ども時代には、親を慕う子どもの愛を、
弟、妹ができれば、兄や姉の愛を、
結婚すれば、夫の愛、妻の愛を、
子どもができれば、父の愛、母の愛を、
嫁が来れば、舅姑の愛を、
さらに孫が生まれれば、祖父の愛、祖母の愛を味わうようになります。
このようにして70年80年の人生を歩み、すべての愛を体験すれば、自分の中に十分な愛が熟すので、その実をもって霊界に行きます。
すでに実が熟しているので、霊界ではもはや役割を続ける必要がありません。
それで親子関係は解消して、神様のもとの兄弟姉妹に戻るというわけです。
今の私たちに重要なことは、今自分が担当する役割をよく果たすことです。
妻に対しては夫の役割を、息子に対しては父の役割をよく果たしてこそ、愛が熟します。
私が親である期間は永遠ではありません。
地上に生きる、ごく限られた間だけです。
その間に、役割をよく勉めておかないと、後になってやり直したいと思っても、「時すでに遅し」です。

また、それぞれの立場が「役割」だということは、我々は夫とか父などという「役」を演じながら、人生という芝居を生きているとも言えます。
子どもがなかなか言うことを聞いてくれない。
夫の行動が私をイライラさせる。
それらも、すべては芝居です。
芝居だと思えば、その現実の沼に沈み込むことなく、もう少し客観的に自分の立場を見ることができるのではないでしょうか。
「子どもが言うことを聞かないのは、私が母の役割をもっとよく演じて、母の愛を深めるためだ」
と考えることもできます。
また、私に母の愛をもたせてくれるために、この子が私の子どもの役を担当していくれている、と思えば、子どもに却って感謝したい気持ちにもなります。
これを統一原理で、
「相対絶対主義」
と表現します。
もともと、私に親となる十分な内容と資格があって父になったのではありません。
父の愛を熟させるために、父の役をもらったのです。
(追記)親子関係が霊界で解消されるのに対して、夫婦関係は本来、霊界でも永遠にそのまま続くべきもののようです。
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