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「思考」からの反論

kitasendo
2024-03-04

最近、「思考」に対して結構厳しく追及してきたところ、遂に「思考」から反論がやつて来ました。

「なぜ私だけを厄介者扱いするのか? 私をかういふ者にしたのは、あなたではないのか?」
といふのです。

反論してゐるのは「思考」です。それなら、「あなた」とは一体誰なのか。

そもそも、どうして自分の内でかういふ反論が出るのでせうか。

ふつう、私たちは
「自分は一人」
と思つてゐますね。

ところが少し考へてみると、迷ふことがよくある。「かうしよう」と思つてゐたら、どこからか「ちよつと待て。それは危ないから、こつちにしたほうがいゝんぢやないか」といふやうな修正案が聞こえます。第一案は誰が考へ、第二案は誰が考へたのでせうか。

「私」は二人ゐるやうに思へる。だがそれなら、最終的に「これにしよう」と決定するのは、どちらの「私」なのか。

これはなかなか難しい問題ですが、今のところはかう考へます。

「思考」は「私を装つてゐるキャラクター」。つまり、「思考」はいかにも「私」が考へてゐるやうなふりをしてゐるが、実は本当の「私」ではない。その「思考」が「あなた」と呼んで反論してゐるその「あなた」こそが、「本当の私」です。

長い間、私は「思考」が自分だと思ひ込んできた。ところが、最近どうもそれは違ふのではないかと気づき、「思考」を「本当の私」から分離させようとし始めた。それで「思考」は危機感を抱くやうになり、同時に、自分の思考法の問題点にも気づくやうになつた。

それで、
「私がこんな考へ方をする癖がついたのは、私のせいぢやない。『本当の私』がしつかりしないために、自分でも嫌になるやうなこんな考へ方をするやうになつたのだ」
といふ抗議を起こしたのです。

この抗議を受けたとき、「ええっ」と驚いたのは「本当の私」です。

そして
「本当にこの私のせいで、思考が歪んでしまつたのだらうか」
と考へ込んでしまつた。

この抗議は、正当な抗議だらうか。「本当の私」が「本当の」と呼ばれる限りは、やはり最終責任は「本当の私」にあると認めざるを得ないでせう。

「本当の私」は「思考」ではない。「本当の私」は自ら考へる者ではなく、「思考」を道具として活用してゐる者です。

「思考」はうまく使ふと、とても有能で有効な道具です。過去のデータを整理し、未来の対策を立て、最も合理的な判断を下さうとします。しかし所詮それは道具なので、自らの活動に責任を持つものではありません。責任はやはり、道具を使ふ者にこそ帰せられるべきでせう。

「思考」を道具として使ふ「本当の私」とは一体何者でせうか。馴染みのある言葉で言へば、「」と言つてもいゝし、「」と言つてもいゝ。「霊人体」と言つてもいゝかもしれない。

いづれにせよ、この「本当の私」が狂ふと、その道具である「思考」も当然狂ふ。「思考」が自分の考へ方に抱く不満は、「本当の私」への不満といふことになるでせう。

たとへば、「思考」がしばしば、自他を比較するとします。比較して、優越感や劣等感を抱く。自分が正しく、相手が間違つてゐると考へて、その相手を批判する。

「思考」がそのやうに働く癖があるなら、それは「本当の私」がさういふ性質を持つてゐるといふことでせう。「本当の私」が自分の真の価値を感じてゐないので、不安なのです。その不安を払拭するために、自他を比較して、相手を貶め、相対的に自分を高めようとする。そのために「思考」を使ふわけです。

それではいけないと感じ、私はまづ「思考」を分離しようと試みた。できるだけ「考へない私」にならうとした。それは一つの手法として、変化の第一歩にはなるでせう。しかし、本丸は「本当の私」です。これをどう建て直すかが問題です。

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Admin:kitasendo