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臨死体験はどこまで理解可能か

kitasendo
2024-02-18


2006年2月2日、アニータ・ムアジャーニは、間違ひなく死ぬはずでした。過去4年間で彼女の癌は着実に進行し、今や、あらゆる臓器は停止しようとしてゐたのです。

すべての医師が見放してゐたにも拘らず、彼女は奇跡的に生き返つた。彼女は臨終を迎へるはずだつた病院のベッドに横たはつたまゝ、世に言ふ「臨死体験」をしてゐたのです。

彼女があの世に行きかけたとき、驚くべき感覚を体験した。それまで彼女を苦しめてゐた「痛み」がすつかり消えた。そして「死の恐怖」もまつたくなくなつてしまつたのです。反対に、これまで感じたことのない愛のエネルギーに満たされ、「我が家」に帰つてきたやうな「安堵」と「自由」の感覚に満たされた。

このとき、彼女には二つの選択があつた。このまゝ、そこ(あの世)に留まるか(つまり、死ぬか)、もう一度元の世(この世)に戻るか(つまり、生き返るか)。

正直、彼女はそこに留まりたかつた。二度とあの苦しい肉体に戻りたくはなかつた。選択権は彼女の手にありました。

しかし結局彼女は、戻る選択をしたのです。このときの選択心理を説明するのに、彼女は強いもどかしさを感じたでせう。この世の人には言葉で説明するしかないのですが、言葉には限界があるのです。

ともかく、彼女の説明によると、
「本当の自分を知つたから」
といふのです。

「本当の自分」は純粋な愛です。その愛でゐれば、自分も他人も癒せると分かつた。もし自分が肉体に戻れば、3日の内に癌が消失するだらうことが、はつきりと分かつた(そして、実際その通りになつた)。そこから、自分にはこの世(肉体の世界)で果たせる役割があり、自分の人生を生き直せるとも分かつたのです。

ここで言ふ「知つた」とか「分かつた」といふ言葉は、「頭で考へた」といふ意味ではありません。あの世では、この世で重視される「思考」といふものが、限りなく小さくなるやうです。だから、考へずに「分かる」のが、あの世の分かり方なのです。

「臨死体験」については、私もこれまで、人の話を聞いたり、本で読んだりしてきましたが、アニータのこの本は格段に秀逸です。何が秀逸か。瀕死の状態から生還し、3日の内に癌細胞がほぼ消失した、そのことではありません。

あの世は、この世のやうに頭で考へ、言葉で表現する世界ではない。根本的なところが、この世と違つてゐるのです。だからあの世の実情と体験を、この世に戻つて説明するのはきわめて難しい。

しかしアニータはそれを、かなりうまくやつてゐます。この世の概念、この世の言葉を使つて、かなりの程度、我々に分かるやうに説明してくれてゐるのです。そしてその説明を聞くと、この世の生き方の極意は結局、あの世の生き方に近づけていくことだなと思はれてきます。

彼女の説明は非常に奥深く、かつ広範囲にわたるので、今回はいくつか私の心にとまつた点を挙げるにとゞめます。

■ 本当の自分とは

アニータは、臨死体験中に直観した自分を「無限の自己」と表現します。

肉体を持つて生きてゐると、つい
「宇宙の中に地球があつて、その上で一人の人間として生きてゐる私」
といふふうに自分を理解するのですが、本当はどうもその反対のやうです。

実は、自分の中に宇宙がある。自分は宇宙のどこにでもゐるし、自分が宇宙の中心にゐるといふ感じもする。だから、宇宙で起こるすべてのことは、自分の内面の反映だと思へるのです。

また、すべての時間(過去、現在、未来)が同時に存在してゐるやうにも感じる。時間が過去から未来へ向けて直線的に流れてゐるのではなく、時間は止まつてゐる。その止まつてゐる時間の中を自分が移動していけるのです。その移動は、速くも遅くもできるし、前向きにも後ろ向きにも横向きにも進める。

それで、
「輪廻転生の概念は、ひとつの解釈にすぎない」
とも言ふのです。

かういふ気づきによつて、
「無限の自己」
といふ実感を持つのです。

■ 「行為」と「存在」

思考は「すること」を重要視し、魂は「存在すること」を重要視するとも、アニータは言ひます。

思考はひとつの瞬間にしか存在できないので、必然的に、瞬間と瞬間とをつなぎ合せて、直線的な出来事を形成します。それが、この世で我々が「時間は直線的に流れる」と感じる理由です。

その思考は、基本的に「未来志向」となり、怖れを動機とします。未来への不安を払拭しようとして、現在を無視して思考が未来へ向けて働き、「すること(行為)」によつて事態を変化・改善しようとするのです。

それに対して、魂(意識、霊、生心)は、「ありのまゝの自分(存在すること)」を表現することだけを望みます。魂には時間の流れなどといふ感覚はなく、つねに「今、こゝ」だけがあるのです。

イエス様が
「何を食べ、何を着るかを思ひ煩ふな。あの野に咲く一輪の花でさへ、栄華を極めたソロモン以上に美しく着飾つてゐるではないか」
と言はれました。

まさに、「何を食べ何を着るか(思考・行為)」を捨て、「美しい花でゐること(魂・存在)」に留まることが、「本当のわたし」の生き方だと諭しておられるやうです。思考だけで生きてゐると、「無限の自己」とのつながりを失ふといふ警告でもあります。

今の世の中の動きを見ると、昭和の時代までは圧倒的に「行為優位」でしたね。根性が強調され、モーレツ社員が日本を復興させたやうに見えます。

ところが平成から令和にかけて、人々の意識は次第に「行為」から「存在」へ移行しつゝある。頑張つて行為で変へようとすることの限界を何となく感じ、「どのやうな私であるか」がより大きな影響力を発揮しつゝあるやうに感じられます。

■ 信念を捨てる

アニータはシンガポールでインド人の父母のもとに生まれ、2歳から香港に移りました。父親は特に伝統的な思想に心を置く人で、アニータは子どものころから「女性はかうあるべき」といふ文化環境の中で育つたと、のちに自覚するやうになります。

「女性は控へめであるべき」
「自分を後回しにしても、相手のことを考へなさい」
といふやうな伝統文化のゆゑに、それを当然のことと思ひ、「自分を周囲に合はせる」ことばかりに気を取られてきたのです。

臨死体験の中で彼女は、
「あゝ、私の癌は私が表現しなかつたエネルギーの現れだ」
といふことに、瞬時に気づいた。

彼女がそれまで抑へつけてきた生命力が、癌として自らを表現したと悟つたのです。だから、彼女がそれまで信じて疑はなかつた「私はかうあるべき」といふ信念を捨て去つた途端、癌は跡形もなく消えた。

「信念」は価値のあるもの、必要なもののやうに思はれてゐます。

しかし「信念」といふものの内実を考へたとき、「信念」とは、
「これが正しい。それを私は知つてゐる」
と疑はずにゐることです。

それなら、「信念」を捨てるとは、
「私はこれが正しいかどうか、知らない」
といふ立場に立つことでせう。

これは言ひ方を換へれば、「不確実なものを受け入れる」といふことでもあり、アニータは、
「不確実なものを受け入れれば、自己が拡大し、あらゆる可能性に心が開かれる」
と語つてゐます。

これらの点以外にも、アニータの語る内容には、この世の常識とは真反対に思へるもの、そもそも考へもしなかつたことなどが、いくつも含まれてゐます。しかしそのほとんどは、私には嘘だとは思はれない。彼女が語る方向へ、我々一人一人が徐々にでも近づくなら、この世は間違ひなく、より住みやすい世界に変はつていくといふ気がする。

但し、このことを思考で理解しようとするなら、要諦を掴み損ねるでせう。思考はこの世でしか通用しない。あの世ではほとんどものの役に立たないやうですから。

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