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このまゝでは良くない

kitasendo
2024-02-12

どんな人、どんな状況に対しても、
「このまゝでは良くないな」
と思つたとき、私たちはほぼ本能的にその相手を変へようとするものです。

たとへば、ある人に対して、私が
「このまゝでは良くないな」
と思つたとき、その人を変へる私の選択肢はいくつもあるでせうが、取り敢えず、3つほど挙げてみませう。

① 教育
② 力づく(強制)
③ 祈り


教育によつて人を変へる。親なら子どもを躾ける。学校なら先生が生徒に知識を授けて、一人前の社会人に育てようとする。教会なら教義を教へて信徒の信仰を高めようとする。

これは悪くないやうに見えます。ただ、教育は大抵、かなりの時間を要する。

もつと手っ取り早いのは、力づくです。相手に恐怖を与へて、こちらの思ひ通りに誘導する。最終的には物理的な力をかざして、ねじ伏せる。

三つ目の祈りは、霊的な力で相手を変へようとする方法です。直接知識を教へもせず、強制もせず、密かに祈るだけでそれが可能だと信ずる人もゐます。

これらの方法は、それなりに有効には違ひないでせう。しかしどの方法の奥にも、ひとつの共通した問題が潜んでゐます。

それは、
「自分がまづ変はらうとしない」
といふことです。

力づくの場合は言ふまでもないのですが、教育にしろ祈りにしろ、往々にして、自分が変はる前に相手を変へようとする。

この点を指摘して、
「相手を自分の願ひどおりに変へようとするのは、祈りとは言はず、呪ひと言ふ
と言つた人がゐます。

正鵠を射てゐますね。

「子どもがこんなふうに変はつてほしい」
「あの人の病気が少しでも治癒してほしい」
と祈るのは、悪くないやうに思へます。

しかし、かういふ祈りの奥には自分を中心とした動機が潜んでゐる可能性があるのです。

たとへば、子どもに変はつてほしいと願ふのは、「子どもに問題がある」と思つてゐるからでせう。その子どもの問題を、私が祈りで解決してあげようと考へる。その私は正しいと思つてゐます。そして、私は正しいのだから、私は変はる必要がないと思つてゐる。

もし祈つて、子どもが思ふやうに変はつてくれたら、
「私の祈りが聞かれた」
と考へる。

反対に、子どもがなかなか思ふやうに変わってくれなければ、
「私の祈りがまだ足りない」
と考へる。

いづれにせよ、子どもが変はるのも変はらないのも、それは子ども自身の意思ではなく、私の意思なのだと思つてゐます。これだとなるほど、「呪ひ」と言つても、まんざら大袈裟ではないやうな気がする。

「呪ひ」といふのは結局、相手を変へようと意識を集中するあまり、自分が変はるといふ観点をすつかり見失つてしまふ祈りなのです。だから、祈る人は、相手が変はることなど、一切祈らないほうがいゝのではないかとさへと思はれます。

それと同様、教育者は、自分が変はつた以上のことを教へようとすると、それは呪ひの教育になる。自分が10変はつて、生徒に1教へるくらゐがちやうどいゝのではないでせうか。

そのやうに「自分が変はること」に専心する人は、本当は「自分が変はることで相手を変へよう」とも考へなくなる。「相手が変はること」は、自分の意識の焦点からまつたく外れるのです。

力づくで相手を変へようとする人には、かういふ話はほゞ通じないでせう。しかし、さういふ人を力づくはもとより、教育、祈りで変へようとするのも筋違ひなので、やはり自分が変はることだけを考へるしかありません。

自分が変はることなく、科学技術だけが異様に発達した社会の弊害と脅威を、我々は目の当たりにしてゐます。「私が変はる」こと以上に重要なことはないと、考へざるを得ない時代に入つてゐると言つていゝでせう。

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Admin:kitasendo