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「純粋な空白」でゐてほしい

kitasendo
2024-02-10

けれども、我々(意識を外側から抱きかかえておる無意識と呼ばれる我々)は、あなたに無垢なる赤ん坊のような在り方で居てほしいと願っておるのです。 分からない、という言葉も無い、純粋な空白で居ていただきたいのです。 そうすれば、あなたという意識の外壁が崩れ、点線のような、気体のような、スカスカした風通りの良い在り方に変わります。
(ネドじゅんさんの本体さんからのメッセージ)

メッセージの主は、何者でせうか。なんだか怪しげですね。

■ 純粋な空白でゐてください


ネドじゅんさんは、
このブログでも以前に一度、取り上げたことがあります。『左脳さん、右脳さん』の著者で、こゝ1年あまり、書籍もベストセラーになり、ネット上でも注目を集めてゐるかたです。自ら「オカン」と自称してゐます。


「本体さん」とは誰かといふと、オカンを生かしてゐる大元のエネルギーです。

ネドじゅんさんはそこのところを、
「私が生きてゐると思つてゐたら、さうぢやない。本体さんが私を生きてゐたことに気がついた」
と言つてゐます。

「わたし」といふ意識は、その本体さんの「指先」だとも表現してゐます。

こんなふうにも説明してゐます。

車を運転してゐて、自分が運転してゐると思つたら、ふと気がつくと、自分は助手席に坐つてゐて、握つてゐたつもりのハンドルもアクセルもない。驚いて運転席を見ると、本体さんが坐つてゐて、ハンドルを握つてゐる。

そして、かう言ふのです。

「さあ、ほら、ナビを頼む。君が行きたいほうへハンドルを切るから」

その本体さんがあるとき、どうしても喋らせてくれと言つて、ネドじゅんさんを通して語り出したのが、冒頭の言葉です。全文はかなり長いのですが、取り敢えず、一節だけ引用しました。

本体さんは何を伝へたかつたのか。

「あなたは『分からない』といふ『純粋な空白』でゐてほしい」
と言ふのです。

「分かる」といふのは本体さんの役目で、あなたの役目は「分からないでゐること」だと言ふ。その状態を「純粋な空白」と表現してゐるのです。

先日、エックハルト・トールの本を読んでゐて、私が心をとめたのも、この「知らない(分からない)でゐること」といふ一節でした。それを「知らないでゐることの心地よさ」といふ記事で書きました。

「分からない」といふ状態でゐることを、「無垢な赤ん坊」とも表現してゐます。これはイエス様が「幼子のやうでなければ天国に入れない」と言はれたことと通じますね。

■ 意識はフィルタである

結局どういふことかと言ふと、
「考へすぎるな。意識を思考でいつぱいにしないでください」
といふことです。

思考はあらゆる物事を評価し、結論を出さうとします。その評価も結論も、自分なりです。自分の過去の体験データに基づいてゐます。

本体さんは、それをやめてくれと言ふのです。自分なりのデータに基づいて思考してゐると、本体さんがそれをはるかに凌ぐ叡智を持つてゐたとしても、教へることができない。思考がパンパンに詰まつて「空白」でない意識には、注ぎ込むことができないのです。

だから、「分かること」は本体さんの役目で、私の役目は何事についても「分からないでゐること」だと言ふのです。しかしこれは、相当に難しい。

「分からないでゐる」とは結論を出さないといふことです。謂はば、「正しいか、間違つてゐるか」の結論を出さないで、「確率」の状態にとどまるわけです。

自分なりには「変だな」と思つても、「間違つてゐる」50%、「正しい」50%にしておくのです。こんなことができますか。

私たちがなるべく早く結論を出さうとするのは、「私が正しい」ことを確認し、それによつて次の対策を早く打たうとするからです。さうしないと、後手に回つてしまふ。ところが確率50%では曖昧すぎて、動きやうがない。これはとても苦しいのです。

意識は「フィルタ」の役割をするとも、本体さんは言つてゐます。

意識が「分かつてゐる」といふフィルタになると、意識は思考からの情報を吸収して、体の細胞にストレスと混乱をもたらす。反対に、「分かつてゐない」といふフィルタになると、意識は本体さんからの情報を吸ひ込み、細胞と神経を再び神の経(みち)に整へる。

私の意識をひとつの丸いボールに譬へてみます。

思考はその内部空間を「評価」と「結論」でいつぱいに満たしたいと考へます。そのために、過去のデータやら未来の予測やらをできるだけかき集める。それらはみな、それなりの物語があり、刺激があるので、思考はそれを味はつて喜ぶのです。逆に、思考はさういふ刺激がないと、とてもストレスを感じる。

一方、「分からないでゐる」のは、ボールの内部空間に何も注ぎ込まず、空白のまゝにしておくことです。「いま、こゝ」の感覚だけを味ははうとすると言つてもいゝ。

しかしそれは、思考にとつてはあまりに刺激がなさ過ぎて、堪えられない。そこで何とか物語を作り出して、空間内を刺激で満たさうとするのです。瞑想のときには、特にこの戦ひが激化する。

瞑想のときに限らない。日常のいかなるときでも、「分からないでゐる」ことの心地よさを感じようとする努力が必要だと思ふ。「分からないでゐる」ことで、より高く、より精妙な知恵を得る可能性が高まります。

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