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知らないでゐることの心地よさ

kitasendo
2024-02-05

「知らないでいること」に心地よさを覚えてください。そうすることによって、思考を超越することができます。なぜなら、思考は常に結論を出そう解釈しようとしたがるからです。「知らないこと」を恐れているのです。
(『Stillness Speaks』第2章「思考の夢から覚めるということ」エックハルト・トール)

■ 知つてゐるパリサイ派と知らないイエス


「知らないでゐること」とは、伝統的な仏教の言葉で言へば、
「無心(あるいは無我)」
と言つても良ささうです。

その反対に、「知つてゐること」は、聖書の表現をすれば、
「パリサイ派(あるいは律法学者)」
とも言へるやうに思ひます。

彼らは、
「自分は何が正しいかを知つてゐる。だから、それ以外のものはすべて拒否する」
と自負してゐるのです。

「知つてゐる」パリサイ派に対して、イエス様は「知らないでゐる」人であつた。それで、「知らないでゐる」人が「知つてゐる」人に迫害されて、最後は十字架まで追ひ詰められた。「知つてゐる」のはかなり凶暴で、恐ろしいことです。

イエス様は新しい福音を説かれたかたであるので、誰よりも「知つてゐる」人のやうに思へます。しかし実は、「知らないでゐること」に心地よさを覚える世界の住人であつたのです。

「知らないでゐる」のは「無心」で、自分の中に何もない。確定したものがないので、新しい智慧がいくらでも入つてくるのです。

多くの修行者たちが目指したのは、この「知らないでゐること」の心地よさで生きる境地であつたでせう。その境地を、仏教は「無心」とか「無我」などと表現したのです。

俗世に生きる多くの我々は、「知つてゐる」世界の住人です。

「私はそのことを知つてゐる」
「私はそれが正しく、あれが間違つてゐることを知つてゐる」

さういふ人であるので、自分が「知つてゐる」こと以外のことは受け入れない。受け入れる必要はないと思つてゐます。そして、非常に狭い結論の世界に留まります。

反対に、「知らないでゐること」が自分のデフォルトの状態だと思つてゐる人は、ひとつの物事に結論を出さうとしない。そもそも、その物事を解釈しようとしない。

「正しい」とも「間違つてゐる」とも決めない。なぜ正しいか、なぜ間違つてゐるかも、解釈しようとしない。

しかしこれは、我々にとつて、とても苦しいのです。正しいのか間違つてゐるのか、どちらかに決着させないと、心が落ち着かない。それがはつきりしないと、自分が正しい側について、次へ進めないやうな気がする。

■ 落ち着かないのは誰か?


この「落ち着かない」のは、一体何者か。それが「思考」と呼ばれるものです。

我々はふつう、「私が思考してゐる」と思つてゐるのですが、その実、「思考させられてゐる」ことが大半ではないかといふ気がします。「あれはかうだ」「これはあゝだ」と絶えず思考しながら、その思考に翻弄されてゐるといふのが実態ではないでせうか。

思考の本体は「肉心」ではないかといふ気がしてゐます。「肉心」の正体は、肉体の欲望を司る本能のやうな機能ではなく、はるかに複雑で高機能です。

私の肉体を維持、保護するために、肉心は休むことなく思考を巡らせ続けます。過去のデータをすべて貯へ、ときに応じてそれを引き出し、未来に対処しようとします。だから、何が正しいかをつねに判断せずにはおれない。それが肉心の本性です。

それに対して、生心は「知つてゐないこと」に心地よさを覚える私の本体です。生心は思考しません。時空間の中に生きてゐないので、過去のデータも使はず、未来を懸念もしない。ただ、つねに神の直下「今、こゝ」にゐ続けます。

だから、「知らないでゐること」に心地よさを覚えなさいといふのは、生心を中心に生きなさいといふことになる。自己主管とは、「今、こゝ」にゐる生心が、時間軸の中で思考し続ける肉心の暴走を抑へて、コントロールしなさいといふことです。パリサイ派のやうに生きず、イエス様のやうに生きなさいといふことです。

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Admin:kitasendo