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アナニアの奇跡の手

kitasendo
2024-01-28

本日の礼拝説教に、アナニアといふイエスの弟子が登場した。

ときはすでに、イエス様が十字架で亡くなつたあとのこと。その弟子たちへの迫害はなほ続いてゐた。その先鋒のひとりがサウロ(のちの使徒パウロ)であつたのです。

ところがそのサウロは弟子たちを捕縛するためダマスコに向かふ途中、突然天からの光がさして、地に倒れ、失明した。お付きの者が手を引いてダマスコまで到着したとき、同地に住むアナニアに主イエスが幻の中に現れた。

そして、
「『まつすぐ』といふ路地にユダの家がある。そこにサウロといふタルソ人が寄留してゐるから、彼に手を置いて彼の目を見えるやうにしてやりなさい」
と命じる。

それと同時に、サウロのほうにも幻が現れて、アナニアといふ者が訪ねて来て、目が明くやうにしてくれると教へてゐたのです。

ところが、アナニアは、それがいかに信じる主の指示であつても、快く思はない。自分たち弟子仲間に過酷な暴力を加へてゐる張本人の一人がサウロであつたから、当然でせう。

そこで主は、彼にかう説明する。

「私は彼を、私の名を異邦人たち、王たちに伝へる器として選んだ。しかし彼はその使命のゆゑに、ひどく苦しむことになるだらう」

それを聞いてアナニアは、ユダの家を訪ねる。指示通り手をサウロの上に置くと、サウロの目から鱗(ウロコ)のやうなものが落ちて、たちどころに目が開いた。そこからサウロは180度、行動を転換するのです。

アナニアが手を置いただけで、なぜサウロの目が開いたのか。その奇跡が起こつた訳はどこにあるのか。それが私は気になつたのです。

主の力が彼の手の上に臨んだからだらう。それは有無を言はせない信仰的な理由ですが、私はアナニアの心中を探らずにはおれない。

彼が最初、主の命令に逡巡したのは、よくわかる。それはさうです。イエスを救ひ主とも認めず、殺害したばかりか、その弟子たちを容赦なく捕縛し続ける、迫害の急先鋒です。怨讐の中の怨讐と言つていゝ人物です。

そんな奴は盲になつてざまあみろであつて、助けてやる謂れなどありはしない。「そんな奴の目を、どうして明けてやれと命ずるんですか?」と、主に反論したのは尤もな話です。

その彼が心を変へたのは、主が自らの意図を明かしたからではあるでせう。しかし考へてみれば、サウロの目を眩ませたと同じやうに、今度は再び超常的に目を開ければいゝのではないか。それができない主ではなからうと思へます。

だが、こゝには、どうしてもアナニアが必要だつたのです。アナニアの手を通してでなければ、サウロの目を開けることは、いかに主でも、全能の神でもできなかつた。

目が見えないうちに襲つて殺害しても気が収まらないほどの怨讐サウロ。その彼を、アナニアが愛せるかどうか。この条件を主は必要としたのだと思へます。

アナニアの手を通してサウロの目が明いたのは、この条件が肉身を持つ一人の人間を通して成立したからでせう。これが、アナニアの成した偉大な業績です。そしてこれは、キリスト教の根本精神でもある。

こゝからは、私の勝手な想像です。

アナニアがそれをできた理由の一つは、もちろん、主の説得にあるでせう。十字架の苦痛を経験された主自らがそこまで言はれるのに、反駁できる理由は弟子にはない。

しかし、アナニア自身の中で、ひとつの転換がなされなければ、主の説得も功を奏さなかつたと思ふ。

その転換とは、
「他為思想から他我思想へ」
の転換です。

「他為思想」とは、「他の為に」といふ考へです。かういふ信条は、信仰を持つ人なら当然備へてゐるものでせう。しかし、サウロのやうな怨讐を助けるなどといふことは、「他為思想」ではできない。

「他我思想」とは、「他(相手)」は「我(私)」だといふ考へです。私の中に相手を取り込む思想です。怨讐のまゝでは決して取り込むことはできないので、取り込むときには相手はすでに怨讐でなくなつてゐます。

アナニアがユダの家で横たはつてゐるサウロを見たとき、すでに怨讐ではなかつたでせう。他我思想のアナニアであればこそ、彼の手を通して主の力が現れた。アナニアの胸の内は、サウロも痛切に感じたに違ひない。そのやうに思ひます。

こんにち、我々が直面してゐる課題も、我々は「他我思想」になれるかどうか。それに尽きると思ふ。

(「他為思想」と「他我思想」については、過去の記事「『呼名祈祷』と『他我思想』」を参考にしてください)

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Admin:kitasendo