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すでにさうであるもの

kitasendo
2024-01-22

「真の自由」が欲しいですか? 「苦しみ」にピリオドを打ちたいですか? それなら、あらゆる瞬間に、自分が感じているもの、あるいは経験しているものすべてを、あたかも事前に選択したかのように生きることです。
(『Stillness Speaks』エックハルト・トール)

自分が今感じてゐる、あるいは経験してゐる何らかの「苦しみ」があるとすれば、それは「すでにさうであるもの」なのです。これを一般的には「現実」と呼んでゐます。

「苦しい現実」は誰でも嫌なので、何とかして変へたいと思ふ。そのために努力するとします。しかし、その「現実」は決して変へられません。

努力して、何らかの「より苦しくない現実」を作れたとします。しかしそれは、その時点で経験してゐる新しい「現実」であつて、「すでにさうであつた苦しい現実」を変へたわけではない。

「すでにさうであるもの」は、その本質からして、変へることはできません。そのやうな形で現れたものは、それ以外の形では存在し得ない、起こるべくして起こつた、といふことです。お釈迦様が「縁起の法」として説いたのは、このことかと思ひます。

起こるべくして起こつた「苦しみ」といふ経験なら、どういふふうに受け止めるのが最も賢明であるか。

それをトールは、
「あたかも事前に自分自身が選択したかのやうに受け止めよ」
といふのです。

さうすれば、「真の自由」を獲得でき、「苦しみ」にピリオドを打てると言ふ。本当でせうか。

私はこれまで、かういふ受け止め方のことを「甘受」と考へてきました。

その意味は、
「それが自分に起こつて当然のこととして、喜んで受け止める」
といふことです。

しかし、トールの解釈は、その一歩先を行つてゐるやうに思へます。

「甘受」においては、今経験してゐる「苦しみ」をもたらしたのは、直接には悪霊人であるが、その背後には神がおられると考へます。「苦しみ」の選択権は、私にはないといふ考へです。選択権は私にはないけれども、当然のこととして喜んで受け止めようといふのです。

それに対してトールは、
「その苦しみは自分自身が選択したものだ」
と考へようといふ。

たとへば、誰かに騙された。詐欺に遭つて、お金を取られた。その「苦しみ」さへも、自分が選択したものだと考へるのでせうか。あまりにもお人好しに思はれます。

常識では、さういふ苦しみは他者が外から私に(理不尽に)与へたものだと考へる。「甘受」でさへ、神の意図で起こつたと考へる。ところがトールは、自分が選択したといふのです。

自分が選択したのなら、損害賠償を求める相手はゐない。決して被害者にはなり得ません。それが本当に賢明な生きかただと言へるのでせうか。

一見すると、決して賢明には見えない生き方ですが、トールがそれを勧める理由は、「真の自由」を得るためです。「真の自由」よりも価値の高いものは、他にあまり見当たらない。そして、それをもたらしてくれるものが「苦しみ」といふ経験だと考へるのです。

聖書にこんな聖句があります。

主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
(コリント後書3:1)

このやうな自由は、並みの生活では手に入らないでせう。世間で言論の自由、信教の自由などと言つてゐるものは、かなり外形的なものに過ぎないやうに見えます。

「真の自由」は、主の霊のあるところにしかない。その場所は、私が「苦しみ」さへも自分の選択だと考へ、完全に自分の人生の主導権を握つたところを意味します。

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Admin:kitasendo