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二世が「流れる」とはどういふことか

kitasendo
2024-01-08

ここ数年、久しく触れてこなかつた話題ですが、こゝで書き記しておきたいと思ひます。

昨日の礼拝で流された動画の一部に、私は相当大きな衝撃を受け、そのあと、夜布団の中に入りながらも、づつとそのことを思ひ続けた。

動画とは、韓鶴子(ハン・ハクジャ)総裁の会見動画です。

そのかたは、話しながら涙を抑へられず、何度も言葉に詰まり、ハンカチで目頭を拭かれた。表情は心の中の苦痛を如実に現して、人目を憚らずに歪むことさへあつた。

文鮮明師は存命中、各地を巡回するためにヘリコプターを所有してゐた。有名な米国の製造した一級品で、もちろん安いものではない。夫が亡くなつたあと、そのかたはヘリコプターを売却しようかどうか、非常に苦悶されたのです。

今となつては、その高価なヘリコプターに乗る者は、自分くらゐしかゐない。それも実際的な理由ではあるけれど、それよりも別に大きな憂ひがあつたのです。

教会には、祝福で生まれた二世たちが数万人に及ぶ。ところがその大半が親の信仰を受け継ぐことなく「流れて」いつた。

「それは、私たち全員の責任なのです」
と、そのかたは呻くやうに言はれる。

ヘリコプターを売却したお金をもとに、未来世代たちのための奨学金を作ろう。それが、そのかたの心に浮かんだアイデアだつたのです。

ところが、このアイデアにご自身が、とてつもなく苦悶された。動画の中で事細かに気持ちを説明されたわけではない。これから書くことは、その動画を通して私が感じたことに過ぎないことをお断りしておきます。

そのかたの中には、いくつもの方向に向かふ、抑へ難い愛があるのです。

妻として、夫への愛。夫は世界的な宗教指導者とは言へ、血を流すやうな思ひで宣教のために買ひ求めたヘリコプター。それを手放すことは、夫への裏切りのやうに感じられる。(それで霊界の夫に了解を求め、許諾してもらつたと言つておられます。これは信じるしかない)

しかし、母としての子どもたちへの愛もある。この愛には、二つの側面があります。

ひとつは、一人の母親として、子どもを慈しむ愛。そしてもうひとつは、このかたに独特なものですが、真の母として、すべての人類、とりわけても祝福で生まれてきた子どもたち(二世)への愛がある。

この子たちは、実際に自分のお腹を痛めて生んだ子ではない。それぞれに実の父母はゐるのですが、真の母にしてみれば、すべて自分の子どもだと感じられるのです。

ところが見てゐると、その子たちの大半が教会にあまり価値を感じず、自分なりの思ひで人生を生きてゐる。それを「流れる」とも表現したのです。

その子たちを、何としても助けたい。どういふ方法があるだらうか。さう考へに考へたときに浮かんだのが、奨学金といふアイデアだつた。その資金を作るには、手元にあるヘリコプターを売却するしかない。

そこで、そのかたの愛が引き裂かれる。その痛みが、あの涙と歪む表情だつたのです。

その苦悩が、動画を観た瞬間には私の胸にズーンと重く響いた。あの涙と表情は、どう見ても、そのかたの本性を現してゐるとしか思へない。ところがそれを反芻するうちに、しばらくすると、いくつかの疑問が湧いてきたのです。

「奨学金で本当に二世たちを助けることができるのだらうか?」
「『流れる』とは、一体どういふ意味だらう?」


助ける手段は、奨学金がその第一歩に過ぎなかつた。このあと段階を踏んで、二世たちの精鋭を集めるやうに促し、謂はば士官学校のやうなものを創設された。彼らは昔の韓国新羅時代の青少年修養団体「花郎(ファラン)」にも例へられるものです。彼らを二世全体の救済の種にしようと考へておられるやうに見えます。

「流れる」といふのは、信仰を失ふとか、世俗に染まる、あるいは教会の活動に参与しないなどと言つた表面的なことではない。少なくとも、そのかたの中での「流れる」とは、「真の父母を自分の本当の父母と感じないで生きる」といふことなのです。

真の母としては、自分のお腹を痛めて生んだ以上の愛情を二世たちに感じてゐるのに、彼らは自分のことを母と認識しない。自分の本当のルーツを知らない。それで情がまつたく通じない。それが、二世たちが「流れる」ことによる真の母の痛みなのです。

かういふ心の分断、それを修復するための第一歩が、夫の血の代価とも言ふべきヘリコプターを手放して奨学基金を作ることだつたのです。

真の母は、身近に接すれば母らしい慈愛が感じられるでせう。しかし摂理の母となるときには、極めて正確で厳格な母になる。はるかに次元の高い母の情になる。

「私たち全員の責任なのです」
と言ひながら、結局は自分が最大の責任を背負はうとされる。

余人をもつて容易に代はれる立場とは思へません。

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はちみつ

一般的に愛が無いと

教会には何年も行っていないので、コメントをしようか迷いました。

一般的に人は楽しい場所、愛ある(自分を大切にしてくれる)ところを求めています。
有名人のライブ、友人達との飲み会などもそうでしょう。人は心が満たされる場所に出かけて行きたいのです。
二世(私の霊の親の子供達もそうだが)が教会に来なくなるのは、そういう「満たし」が教会に不足しているのではないでしょうか。
たとえ厳しくても満たされるものがあれば、人は足を運ぶものです。部活とかが、そのいい例でしょう。苦しくても、仲間との励まし合いがあるからやっていけるのです。
二世が教会に行かなくなるのは、必ず理由があるはずです。

2024年01月13日 (Sat) 10:29
kitasendo
Admin:kitasendo