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イエスと左の強盗

kitasendo
2024-01-04

単純作業に没頭してゐると、ひとつの場面が脳裏に浮かんだ。
先日も記事に書いたことのある場面。イエス様がその生涯の最期、十字架にかゝる場面です。

両脇に強盗がひとりづつ、十字架にかけられてゐる。

左の強盗は悪態をついて、
「お前がほんとうに救ひ主なら、自分を救ひ、我々も救つてみよ」
とあざける。

それに対して、右の強盗は彼をたしなめ、
「お前は神を恐れないのか。俺たちの罪は明らかだが、このかたは何一つ罪を犯してはゐない」
と、イエス様をかばふのです。

するとイエス様は、その右の強盗に対して、
「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにゐるだらう」
と言はれる。

よく知られた場面です。

ところが今回、この場面を思ひ出したとき、いつにない疑問が湧いてきたのです。

「左の強盗はどうなつたのだらう。イエス様はなぜ、彼には楽園への同行を許されなかつたのだらう」

問ふまでもない愚問でせうか。そのやうにも思へます。しかし愚問だとしても、どう答へたらいゝのでせうか。答へを探さうとすると、いろいろな思ひが浮かんできます。

右の強盗は土壇場でイエス様を救ひ主として信じたが、左の強盗は信じなかつた。信じるか、信じないか。そこに天地の違ひがある。そこでイエス様は、信仰を示した右の強盗にだけ楽園に同行する特権を許された。

最もあり得さうな答へですね。しかしさうすると、信仰のなかつた左の強盗は見捨てられ、歴史の闇の中に消えたのでせうか。

質問の仕方を少し変へてみませう。

「イエス様は左の強盗を楽園に同行できなかつたのだらうか」

もう少し有体に問ふなら、
「イエス様には、左の強盗までも楽園に同行させるだけの愛の懐がなかつたのだらうか」

こゝまで問ふと、もはや本人の信仰の問題ではなく、イエス様の愛の問題になります。イエス様はどこまでの人を愛で包み込めるかといふことです。

私は、左の強盗までも包み込めると思ふ。さう思ふ根拠があります。

同じ十字架での場面に、かういふ描写があります。

そのとき、イエスは言われた。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
(ルカ福音書23:34)

「彼ら」とは、イエス様を十字架に追ひやることに加担したすべての人々を指してゐるでせう。彼らの行為はあまりの無知、あまりの非道にも見える。神の摂理に逆行してゐるのは間違ひないやうにも見える。

しかしそれは、私の意識の基準で判断することです。愛のレベルが低い者ほど、原理で判断する。原理で見れば、「間違つてゐる」といふ判断になるしかない。

しかしイエス様はその原理を曲げてでも、「おゆるしください」と神に祈つておられる。といふことは、イエス様ご自身はすでにゆるしてゐるといふことです。何によつて? 愛によつてゆるしてゐるとしか思へません。

「彼ら」をゆるしてゐるなら、左の強盗も当然、その範疇に入るでせう。だから、ゆるせないはずがない。

この記事で、私は一体何が言ひたいのか。

イエス様と2人の強盗のやり取りの中で、私たちはごく当たり前のやうに、右の強盗の信仰的発言と、それに対するイエス様の応答に注目してきたのです。しかし本当に考へてみるべきは、左の強盗とイエス様との関係ではなかつたか。そのことです。

左右の強盗が、のちにフランス革命期の「国民議会」における左翼、右翼へとつながり、さらに左翼は共産主義へと展開していく。さういふかなり霊的な歴史観を聞いたことがあります。それまで念頭に入れるなら、なほさら、イエス様は左の強盗をなおざりにすることはできないでせう。

「信仰・不信仰」「善悪」の判断基準で対処すれば、「不信仰、悪」として見捨てられた者は、一巡して、恨みをもつて戻つてくる。救ひの主体、愛の主人は、左の強盗を見捨てることができないはずなのです。

これは私にとつても他人ごとではない。

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