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私は「正しい人」ではない

kitasendo
2023-12-30

■ 心の中に入れる

我が子や孫があまりにも可愛いことを
「目に入れても痛くない」
と言ひます。

小さな埃が入つただけでも痛いのに、子どもを入れても痛くないとは、ただ事ではない。それくらゐ可愛いと言ひたいわけです。

ところが、小さい頃は可愛かつた子どもたちも、いつまでも可愛いとは限らない。子育てにはさまざまな紆余曲折があります。

憎らしいときもある。腹を立てて大声を上げるときもある。思ひ通りにならなくて、悩むときもある。

それでも「目に入れても痛くない」と言ひ続けられるか。難しいところです。こゝに私たちの(愛の)限界があります。

子どもでも難しいのに、赤の他人ならどうでせう。性の合はない人、私と対立する人なら、もつと難しい。ほぼ不可能のやうに思はれます。

「目の中に入れる」といふのは、もちろん比喩ですが、何の比喩かと言へば、「心の中に入れる」ことの比喩です。私たちはどれだけの人を自分の心の中に受け入れることができるでせうか。

■ 無極な許す人になれ

前回の記事「何が私を救済するのか」で、
「救ひとは、被害者意識が消えてなくなることだ」
と書きました。

被害者意識が消えるといふことは、同時に加害者も消えるといふことです。「加害者VS被害者」といふ二極対立概念の設定自体がなくなることです。

イエス様の教へは、詰まるところ、
「被害者にならず、許す人になれ」
といふことでせう。

それが、
「他者を私の心の中に入れる」
といふことです。

言葉を替へて言へば、
「二極対立概念から無極になる」
といふことでもあります。

これがどこまでできるか。私たちの、人としての課題が、そこにあると思ふ。

まづは、我が子を生涯、自分の心の中に入れ続ける。どんな行動をとり、どんな人間にならうと、心の外に排除しない。その次には、配偶者を心に入れ続ける。これだけでも本当にできれば、かなり大したものだと思ふ。

次には、親戚や知人友人、同僚などを心の中に入れる。そして最後に、私と対立する人まで心の中に入れる。そこまでいけば、私は限りなく神の心に近づいたと言つてもいゝでせう。しかしこれは、不可能に思へるほど難しい。

どうしたらいゝでせうか。

■ 二極対立概念をなくす

私なりに試みてゐることは、まづ、自分の中に「二極対立概念」があることに気づくことです。

たとへば、
「私は正しく、あの人は間違つてゐる」
「私が善で、あの人は悪だ」
といふやうな見つめ方です。

これはあくまでも「二極対立概念」であつて、現実が本当に二極で対立してゐるわけではない。概念があるので、現実がそのやうに見えてゐるだけです。現実には「正誤」も「善悪」もないといふことです。

「私は正しいのに、不当に評価され、扱はれてゐる」
といふ思ひが被害者意識になります。

だからまづ、「私は正しい」といふ概念を消すことです。さうすれば、(理屈では)「不当」といふ判断もなくなり、被害者意識も消えてしまふ。

「どこまでの人を私の心の中に入れることができるか」といふアイデアは、神を想定したときに出てくるものです。神は無極のかたであり、「正誤、善悪」の概念がないので、どんなものもすべてご自分の心の中に入れてしまふかたのやうに思へるのです。さうでなければ、私たちは誰一人、生きてゐることさへできない。瞬時に消滅してもおかしくないと思へます。

それゆゑに、できるだけ多くの人を私の心の中に入れようと努力することは即ち、神に似ようとすることです。その努力の過程で、私に対立する人が現れることは、大きなチャンスだと言へます。

さういふときこそ、善悪の二極対立で見ない。「私は正しいのに」と言つて、被害者にならない。許す人になつて、その人を無条件で私の心の中に受け入れる。そして、「永遠にあなたと一緒に生きていきませう」と提案する。

たとへば、今の家庭連合にとつても、そのやうに提案すべき人たちはたくさんゐると思ふ。

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Admin:kitasendo