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本当のあなた自身の姿かたちで現れてください

kitasendo
2023-12-26

■ 神はどのやうに現れるか

『神との対話1』の冒頭あたりで、ニールが神に執拗に要求することがあります。


「私たちみんなが理解できる方法で現れてください」

それに対して神は、
「私は何度も、何度も現れてゐる。今もかうして現れてゐる」
と答へる。

神はニールの真意を理解してゐないやうにも見える。そこでニールは重ねて懇願する。

「いや、さうぢやないんです。私が言ひたいのは、疑ひの余地のない現れ方、否定しやうのない現れ方のことです」

「たとへば?」

「今、私の目の前に現れるとか」

「今、さうしてゐるではないか」

「どこに?」

「あなたが見るものすべてに」

どうも、二人の会話は、どこかうまく噛み合つてゐないやうです。

最終的に、ニールが
「本当のあなた自身のかたち、姿で」
と頼むと、神は
「それは不可能だ」
と即答する。

両者の会話がちぐはぐな理由を紐解いてみませう。

■ 神の姿かたちはひとつではない

ニールは、
「ひとつの存在には、ひとつの姿かたちがある(はずだ)」
と思つてゐる。

それに対して神は、
「私はどんな姿やかたちにもなれるが、逆に、唯一のそれはない」
といふ存在なのです。

ニールの観念は理解できます。私たちも大体似たやうな考へをするでせう。

AさんはAさんとしての、唯一の姿かたちを持つてゐる。Bさんもまた独自の姿かたちを持つてゐる。だからこそ、私たちはAさんとBさんとを区別できる。それが私たちのふつうの考へです。

しかし、神は違ふやうです。AさんとかBさんといふやうな、識別できる姿もかたちもない。

もしも神が、ある特定の姿で現れたら、どうなるでせうか。

それを見た人は、それがいつまでも変はらぬ唯一の神の姿だと思ひ込む(ニールのやうに)。そこで、別の人に別の姿で現れると、最初の人は、二人目に現れたのは(本当の)神ではないと言ふでせう。すると、この二人は必ず対立するやうになる。それは神の願ふところではない。

それなら、どういふ方法で、私たちは神を認識できるのでせうか。「あなたが見てゐるものすべてを通して」と神は答へる。何だか、けむに巻かれたやうですね。

歴史を振り返つてみませう。

イエス様が現れて神を説いたとき、伝統的ユダヤ教の指導者たちは一様に、
「お前の神は、本当の神ではない。偽りの神だ」
と言つて、イエス様を追及した。

その後も、「私は神に出会つた。神が私に語りかけた」といふ人が現れる度に、「その神は悪魔の仕業だ。異端だ」といふレッテルを貼つて迫害するのが常だつた。そんなことが何度も重なれば、神も無闇に現れるのを躊躇するやうになつてもおかしくありません。

私自身もさうです。

この本にはじめて出会つたのは、今から25年以上前のことです。そのときは少し読んで、「これは私が信じてゐる神とはあまりに違ふ」と思つて、本を放り投げてしまつた。

それが25年ぶりに再び手に取つて、しきりに読み耽り、感心するのはなぜか。まさに、神がニールに語つた通りです。

神はニールといふ個人に現れて語つた。それは、ニールにとつての「神の姿かたち」なのです。だからそれが聖書の神、イエス様の説いた神と違つてゐたとしても、おかしなことではない。むしろ、「神の姿かたち」を聖書の神の「姿かたち」に限定してしまふほうが狭量といふべきではないか。

さう考へると、ニールに現れた神も、絶対唯一の神の姿かたちではない。それを読む私には、神はまた違ふ姿かたちで現れるかたかもしれない。

私に現れる神の姿かたち。これを私たちは素直に見れない場合が多いのではないでせうか。なぜなら、神の概念が強くあるからです。

聖書の神、歴史に現れた神は、かういふ神だ」
「『原理講論』で説明する神は、かういふ神だ」


かういふ概念が強すぎると、私たちは自分に現れた神よりも概念の神を優先する。あるいは、自分に現れた神を概念の神によつて解釈しようとする。

私には、神はどんな姿かたちで現れるか。それはある意味、私自身の姿かたちを反映してゐます。

たとへば、ニールに現れた神は、ニールの内面を反映してゐる。ニールの感性、知識、状況に合はせて、神は語つてゐます。それが神の現れかたでせう。なぜなら、神には決まつた姿かたちがないからです。

私にとつて、神はかなり遠くにおられ、親しみのないかたなら、それは私自身が親しみの薄い人間だからと考へられる。神は私の内面に応じて、変幻自在の姿かたちで現れるのです。だから、私が変化すれば、それに応じて神も変化されるでせう。

■ 人の姿かたちもひとつではない

最後にもう一つ。

AさんはAさんとしての、唯一のかたちを持つてゐると、先に書きました。しかし実は、これは正しくない。私がAさんを見るとき、その姿かたちは、神と同様、やはり私の内面を反映してゐるのです。

私がAさんを嫌ひだつたとしても、私が変化すれば、Aさんは私にとつて「好ましい人」に変化することは大いにあり得ます。Aさん自身が変化してゐなかつたとしても、私に現れるAさんの姿かたちは変化する。

つまり、私たちもすべて神と同様、決まり切つた唯一の姿かたちはないといふことです。私たちも皆お互ひに、変幻自在、融通無碍です。

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Admin:kitasendo