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裁き概念撲滅運動

kitasendo
2023-12-23

■ 裁きの起源

今のこの世界の大半は、「裁く」といふ概念が根底にあつて成り立つてゐるやうに思ひます。

「あなたと私は、どちらが正しいか。それに決着をつけよう」
と、多くの人々は、つねに物事を「ひとつの正しいこと」に収斂しなければ落ち着かない。

それで、とても息苦しい。対立と闘争が絶え間なく続きます。

こんな息苦しい概念は、一体どこから生まれてきたのか。考へやうによつては、古い神話にその由来があるとも思へます。

ある神話には、良い神と悪い神が登場し、闘争を繰り広げる。勧善懲悪が展開する。そして、何よりも聖書です。

神は初めに戒めを作り、それを破つたとして、アダムエバを楽園から追放した。1600年後のノアのときには、「私はこの世を創つたことを悔いる」と言つて、大洪水で人々を流し去る。

神話時代から歴史時代に移つても、神はユダヤ人たちに、
「私以外の神を神としてはならない」
と厳命する。

それでも彼らが信仰を失ふと、容赦なく強大な外敵の手に渡してしまふ。救ひ主を十字架で殺害した者たちの子孫は国を失ひ、2000年間も流浪の民となる。

イエス・キリストは一旦「裁き」の概念を否定したやうに見えます。

他人を裁くな。… あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(マタイ福音書7:1-2)

ところが、その後のキリスト教は裁きに裁きます。魔女狩りでは女性たちを裁き、十字軍ではイスラム教徒を裁きます。

誰の名で、誰の権威で裁いたのでせうか。神の名と権威で。なぜなら、神は「裁く神」であると信じたからです。「許しの神」が「裁きの神」に敗北し続けたやうに見えます。

しかし私は、神は「裁きの神」ではないと思ふ。ただ、我々の目にそのやうに見えたのです。なぜでせうか。

■ 誰があなたを裁くのか

こゝで少し、先ほどのイエス様の警句を考へてみます。

「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ」
とあります。

誰があなたを裁くのでせうか。

一見すると、あなたが裁いた相手、あるいは、あなたがたを見てゐた第三者が裁くやうに思へます。

「あなたは、そんなふうに私を裁くけれども、あなたにだつて同じやうな欠点があるではないか」
と、相手から反撃される。

だから「裁くな。やり返されるよ」と言ふのでせうか。さうではないと思ふ。

裁くのは、他の誰でもない、私自身の「良心」です。この良心こそが、最も手強い、厄介な裁き主です。

「他人を裁くな。あなたがたは、自分の裁く裁き(の基準)で、自分の良心に裁かれ…」
といふのが、イエス様の真意のやうに思へます。

いや、本当のところ、良心は裁くのではない。忠告するのです。しかし、それがあまりに心に痛いと、裁かれたやうにも感じる。

良心には裁きはない。忠告と許しがあるだけです。神もさうでせう。神にも本当は裁きはない。ところが、我々には往々にして、神の所業が裁きに見えてしまふ。

なぜでせうか。

■ 道徳は法律より緩いルールか

我々が自分の良心で自分に忠告しないからです。良心の力がとても弱くて、毅然としてゐないのです。

自分の良心の忠告に耳を傾けないから、他の誰かから裁かれる(やうに感じる)。信仰者なら神から裁かれるやうに感じる。「あゝ、罰(ばち)が当たった」と言つて。

「道徳は法律より緩いルールだ」
と言ふ人がゐます。確かに、そのやうにも見えます。

今自民党を揺るがしてゐる裏金問題でも、検察当局は法律で追ひ詰めようとしてゐますね。まつたく容赦がないやうに見える。しかし、道徳問題として追及する人はほとんどゐない。

ところが本当は、道徳のほうが法律よりはるかに厳しいと思ふ。法律は外側から人を縛つて、拘束し、追及します。一方、道徳の本質は、内側からその本人を追及するのです。

ある場合には、法律が許すところでも、良心は許さず、どこまでも追及し続ける。

「法律ではもう時効だけど、あなたは本当にそれでいゝのか」
と問ひ詰めるのです。

ところが往々にして、私たちは自分で自分をそこまで徹底して追ひ詰めないから、道徳は法律より緩いルールだと感じてしまふ。私たちがさうであればあるほど、裁きは自分の内からではなく、外からやつて来るしかない。

もしも私たちが良心の声に最も従順に従はうとするなら、どうなるでせうか。

外からの裁きはなくなる。外から裁かれる前に、自分の良心の忠告に従ふからです。外から法律で裁かうとしたつて、すでに良心が自分をとことん問ひ詰めてゐれば、大抵の法律はむしろ緩く感じるかもしれない。

あらゆる人がそのやうになれば、この世から裁きはなくなる。といふより、「裁き」といふ概念自体がなくなる。人々は第三者の裁きを必要としないから、裁判官といふ職業は不要になる。そして、「裁きの神」はやつと「許しの神」にその玉座を譲ることになるでせう。

誰からこの「裁き」概念撲滅運動を始めればいゝのでせうか。「裁き」概念はもはや必要ないと気づいた人から。私も手を挙げます。

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