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ハワイ+キリスト教+儒教

kitasendo
2023-12-02

先日、ホ・オポノポノについてのyoutube動画を作つて、一つ、改めて気づいたことがある。

ホ・オポノポノは400年ほど前からハワイに伝はる、問題解決の手法です。基本的には中心に立つ人がゐて、その人を中心にグループで問題を解決していく。それを、モナ・ナラマク・シメオナといふ女性がインスピレーションを得て、自分の内部だけで完結できる手法として大きく改革した。

それで、新しい手法を正式には、
「セルフ・アイデンティティ・スルー・ホ・オポノポノ(Self I-dentity through Hoʻoponopono, SITH)」
と呼ぶのです。

この手法の基本思想では、自分の内に4つの「自己」を想定します。

最上位に「神聖なる知能」、その下に「超意識(ハワイ語でアウマクア)」があり、「顕在意識(ウハネ)」があつて、一番下に「潜在意識(ウニヒピリ)」があるといふイメージです。

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それで、先日気づいたことといふのは、下の3つにはハワイ語があるのに、最上位の「神聖なる知能」にはそれがないといふことです。想像すれば、従来の伝統的手法でも下の3つは想定されてゐたのに、「神聖なる知能」だけは明確に想定されてゐなかつた。モナが手法を改革するときに、それが新たに追加設定されたと考へてもいゝのかもしれない。

「神聖なる知能」は、キリスト教の「神」に近い概念のやうに思へます。その概念を入れることで、SITHが作られたといふことです。ハワイ土着の固有な精神性に西洋キリスト教が導入され、そのブレンドとして生まれたのがSITHかなとも想像します。

ところが、こゝで興味深いのは、「神聖なる知能」を「私」の外部ではなく、「私」の一部とみなしてゐることなのです。これはかなり重要な点ではないかと思へます。

キリスト教における神のイメージは、
「全知全能にして絶対者なる神。天の玉座からこの世を見下ろしておられる神」
といふ感じでせう。

人によつて多少のバリエーションはあつても、明らかに、私の外におられるといふイメージです。

それに対して、「神聖なる知能」は私の外ではなく、私の中に、私における自己の構成員の一人として存在してゐると見なす。

こゝから、どのやうな発想が生まれるでせうか。

キリスト教の言ふ神がおられるとしても、私はそのかたを、私自身の「神聖なる知能」を通して見る。逆に言へば、神は私に対して、私自身の「神聖なる知能」を通して現れる。

謂はば、「神聖なる知能」は文字通り「神聖」で「全知全能」のやうでありながら、同時に私自身のパーソナルな神でもある。崇高でありながら、いつも日常的に私の身近にゐて、願ふことがツーカーで通じる。さういふ神イメージが私の中に浸透するやうに思はれます。

但し、さうは言つても、どことなく「プログラム」の印象が残るのも事実です。

ホ・オポノポノの一連のプレセスにおいて、私が意識できるのは、文字通り、顕在意識(ウハネ)の部分だけです。

潜在意識(ウニヒピリ)は自身の中に過去からの膨大な記憶を保存しており、それを随時再生して、ウハネに体験させる。ウハネはその体験を通してウニヒピリの記憶に気づき、その記憶を消去してほしいと超意識(アウマクア)に依頼する。アウマクアはそれをさらに「神聖なる知能」に伝へると、そこから記憶の消去作業が開始されるのです。

このプロセスにおいて、所謂「私」には、ウニヒピリ、アウマクア、神聖なる知能の動きは知覚できない。それはあかたも、私の体の中で休まず動いてゐる自律神経を意識しないのに似てゐます。

意識も知覚もできないのに、絶えず過つことなく稼働し続けてゐる。その意味で、ウハネ以外の3つはどれも「プログラム」的だなと思ふのです。

SITHにおける「神聖なる知能」は、つねに「私」が自分の願ひを送り届ける対象に過ぎない。「私(ウハネ)」が願ふ自己で、「神聖なる知能」は答へる自己といふ関係に固定されてゐます。その意味では、従来のキリスト教の神観に近い感じがする。

そこでもう一つ、東洋思想の「」をブレンドしてみたらどうでせうか。

「孝」は元来、儒教の説く重要な徳目の一つで、子どもが自分の親を「敬ひ支へるべし」といふ道徳的概念と言つていゝでせう。しかしこゝでは、「親を喜ばせよう」とする子どもの情と行動と理解したほうが、もつと良ささうに思ひます。

「喜ぶ」とか「喜ばす」といふのは、最もプログラムから遠い行為です。プログラムには起点と終点とが予め決まつてゐますが、喜びにはそんなものがなく、むしろ「思ひがけない」ほど、喜びが増すものです。

そこで、「孝」が入ると、神と私との固定的な関係が崩される可能性がある。お互ひの関係がもつと流動的になり、神はプログラムに留まらなくなるやうに思ふのです。



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Admin:kitasendo