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思考しない「私」

kitasendo
2023-11-30

量子力学に「観測者問題」と呼ばれるものがあります。

量子力学において、波動関数(量子状態)はシュレディンガー方程式に従って決定論的に時間発展し、異なる状態の重ね合わせとして表現される。しかし測定を行うと、そのうちの1つの状態にあることが分かる。測定は、量子系に対してシュレディンガー方程式で表されない「何か」をしていることを示唆する。観測問題とは、その「何か」が何であるかを記述すること…」(wikipedia「観測問題」)

これを私のやうな素人でも分かる説明に言ひ換へれば、
「量子は観測(観察)されてゐないときは確率の波として存在してゐるが、観測された途端、位置と状態が特定される粒子として収束する」
といふことになるでせうか。

物質からなるこの世は、その最小構成単位が量子であることから、いろいろな空想が湧くことになる。

宇宙は元来波として存在してゐるが、人間がその宇宙に目を向けた途端、何百億光年といふ広大な広がりとして実在する。あるいは、自分の体も生まれたときからあり続けるやうに思つてゐるが、実は意識を外した途端、単なる波に戻る。だから、睡眠中の意識のないときは、私の体といふ実体はなくなつてゐるのかもしれない。

しかしこれはまあ、我々の常識からすれば、あまりにも飛んだ発想のやうに思へますね。それでも、私自身しばしばかういふ体験もして、不思議に思ふことがあるのです。

秋から冬にかけて空気が乾燥してくると、肌も乾燥してくるのか、痒みを覚えることがふえてきます。少し痒いなと思つてゐても、興が乗つてブログ記事を書くのに没頭してゐると、痒みが消えてしまふ。

といふか、没頭から覚めて初めて、
「あれっ、さう言へば、痒みがまつたくなかつたな」
と気がつくのです。

そして反対に、さほど痒みがなくても、
「これがだんだん痒くなるかもしれない」
と意識すると、厄介なことに、本当に痒みが増す。

痒みつて、一体なんなんだ、と思ひますね。痒みは本当に実在するのか。量子のやうに、観測しているときは粒子となつて収束するものゝ、観測をやめるとたちまち波となつて漂ひ始める。そんな感じがします。

それであるとき、
「観測(観察)つて、なんだらう?」
と思つたことがあるのです。

例へば、「量子を観測する」といふとき、観測も一様ではないでせう。同じ人が観測するにしても、そもそも毎日条件が同じではない。昨日は気分がよかつたが、今日は出がけに夫婦喧嘩をして気分が悪い。さうすると、観測者は同じでも、観測条件は同じでない。

まして、違ふ観測者が観測すれば、観測条件は絶対に同じにならない。観測者Aは素直な人、観測者Bは疑り深い人。それでも、観測された量子はまつたく同じ振る舞ひをするでせうか。疑り深い人には自分の姿をあまり見せたくないのが、量子の本音ではないかといふ気がする。

量子ではなく細胞の実験でしたが、10年近く前、スタップ細胞の発見が世間の注目を集めたことがあります。若い女性研究者が誇らしげに新発見を発表したが、すぐさま疑義が出され、多くの研究者が追認実験をしてみたところ、誰一人スタップ細胞を作り出せなかつた。

それで「天下の大ペテン」といふことになつて、その若い研究者は「大ウソつき」といふレッテルを張られ、社会の表舞台から完全に追放されたのです。

最後の記者会見で、彼女が、
「スタップ細胞は、間違ひなくあります」
と悲痛な面持ちで叫んでゐた姿が、今でも私の脳裏に焼きついてゐます。

「あれもまた、観測者問題ではなかつたのか?」
といふ、素人の勘ぐりを捨てきれないでゐます。

これは余談です。言ひたいのは、量子力学や科学の観測に限つた話ではなく、日常生活における「観測(観察)」といふ問題なのです。

我々は日々、自分自身も見るし、他者も見るし、環境も見て暮らしてゐます。これを「観察」と言つてみませう。

例へば、
「私はあなたを見て、かう思ふ」
と言つたとします。

観察の結果、私にはその人が「おかしな人」に思へる。それで、「考へ方がまつたくおかしい」といふ観察結果を出す。

ところが、その観察は正しいのか。「観察」は自分で思つてゐるほど簡単なものでも単純なものでもないやうに思へるのです。

量子力学の例では、同じ観測者でも、その日によつて気分が違ふと言ひました。我々の日常でも同様で、私も日によつて気分が違ふ。その上、先入観もあれば、既成概念もある。さういふ様々な変数を自分の中に抱へてゐるのが、私なのです。

そんな私が、相手をどれだけ正しく観察してゐると言へるでせうか。いや、実のところ、「正しい観察」などといふものはないといふのが、より真実に近いと思ふ。

それでも「より正しい観察」をしようとするなら、観察者としての「私」を消すしかない。「私」のない観察者になることです。

「私」がないとは、どういふことでせうか。

気分がない「私」。先入観がない「私」。既成概念がない「私」です。これを一言で言へば、「思考のない私」です。

絶えず思考する私。思考と自分とを同一化してゐる私。思考に支配されてゐる私。私の理解では、さういふ「私」を、仏教では「小我」と呼んだ。それに対して、「思考しない私(あるいは、思考に支配されない私)」を「真我」と呼んだのです。

「思考しない私」は、宗教者だけの特権ではありません。どんな人にも、それになれる道は開かれてゐます。

例へば、アメリカで行はれた調査で、天才科学者たちに偉大なアイデアが閃いたのは、思考が止まつた状態のときだつたといふ報告がなされてゐます。そこから考へると、大多数の科学者たちがアインシュタインのやうな功績をあげられないのは、「思考する私」になれないからではなく、逆に、「思考しない私」になれないからだと言ふこともできさうです。

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Admin:kitasendo