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本性はプログラムである

kitasendo
2023-11-27

原理講論』には、二つの本性が出てきます。一つは「創造本性」、そしてもう一つが「堕落性本性」です。

「創造本性」は、神が元々与へた性質ですね。それに対して「堕落性本性」とはどういふことか。元々の「創造本性」が歪んだものだとすれば、「本性」と呼ぶのはおかしいのではないか。

長い間さういふ気もしてゐたのですが、よく考へてみると、うまく「本性」と付けてくれたものだと思ひます。どちらも「本性」でいゝのです。

我々人間の心の機能は高度に複雑なのですが、その中で「本性」は「プログラム」の役割を果たしてゐます。「創造本性」も「堕落性本性」も、「プログラム」といふ点では同じなのです。

「プログラム」とはどういふことでせうか。いちいち意識しなくても、無意識の裡に自動的に作動してくれるものといふ意味です。

「創造本性」とは、まさにさういふものでせう。美しいものを見れば、自然に惹かれる。善いと思ふことなら、自分を犠牲にしてでもやりたいと思ふ。かういふ心の機能は創造の初めからプログラムされてゐるので、我々がその都度「どうしよう」と考へるまでもなく、無意識の裡に作動してくれるのです。

これが神の95%だと思はれます。つまり、神の責任分担とは、我々の内において、無意識に働く作用を指すのです。

これに対して、その都度立ち止まつて、
「これとこれ、どちらを選ぶか」
と意識して選択するのが、人間の5%と言つていゝでせう。

こゝに、人間が独自の創造性を発揮する余地が生まれます。もし我々がプログラムだけで動くものであるなら、創造性はあり得ません。プログラムは完全なルーティンであり、そこにこそプログラムの目的と意義があるのです。

だから、創造本性といふ本来のプログラム95%の上に、この5%を正常に作動できれば、人間は神の共同創造主といふことになれたはずであるのに、こゝで大変困つたことが起きた。思ひがけずもう一つ別のプログラムが立ち上がり、それが元来のプログラムに取つて代はつたのです。これが「堕落性本性」です。

このプログラムの入れ替はりは、神にとつてもきわめて厄介なことだつたと思はれます。といふのも、プログラムは無意識で動きます。さうしようと意識しなくても、ごく自然に堕落性が誘発されるのです。だから、これを意識的に改変することは非常に難しい。

現代の脳科学は、顕在意識が潜在意識の後追ひであると、ほぼ確定してゐます。

wikipediaの「意識」項目には、
「『意識とは自分の現状をモニター(監視)する機能である』と結論づけられつつある」
との解説があります。

これはつまり、意識は自分の現状(プログラムの動き)をモニター(観察して確認)する機能であるといふことです。確認した動きを「受諾する」か「拒否する」かの選択権はあるものゝ、動きそのものを制御することはできないのです。これだから、意識的にプログラムを書き換へようとするのは、至難の業と言つていゝわけです。

パソコンであれば、不要なプログラムはアンインストールすればいゝ。あるいはもつと根本的に、初期化するといふ方法もあります。しかしこれを生身の人間でするのは、死を伴ふ危険があるでせう。

イエス様が、
「死なんとする者は生きる」
と言はれたのは、このことかもしれません。

これは大変な道です。できれば死なずにプログラムを書き直したい。どうすればいゝのでせうか。

それが、これまでいろいろな宗教が苦悶してきたところです。こんにちでは、特定の宗教にはこだはらず、心ある人たちが独自の方法を見つけようと工夫してゐるところでもあります。

一番の難所は、プログラムに手をつけるために、無意識の領域に入り込むその入り口を開けるところです。これがなかなか難しい。

私が感じるのは、どんな手法にしろ、言葉には一定の限界があるといふことです。

「宇宙の創造原理は、かうなつてゐる」
「我々の問題点は、こゝである」
「我々は生き方を、このやうに変へる必要がある」


かういふことをいくら繰り返し聞いて学んでも、それは知識として頭には入るのですが、意識レベルにとどまるので、どうしてもプログラムにまでは届かない。

「良い話を聞いたな。ほんとにさうだな」
と思ひながら、その知識も時とともに、頭から次第にフェードアウトしていくのです。そして古いプログラムは、今まで通り変はらずに動き続ける。

人生の終焉を迎へる前に、何とかしたいものです。

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