fc2ブログ
line-height:1.2;

幸福についての二つのパラダイム

kitasendo
2023-11-25

人間の本心は、… 悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。
(『原理講論』総序)

「そこに行き着く」道は「そこにいる」ことだ。行きたい場所にいなさい。幸福になりたいか? では、幸福でいなさい。
(『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ)

この二つの神の言葉は、一見、真逆のことを言つてゐるやうに見えます。

『講論』が、
「努力をしてこそ、幸福が得られる」
と主張してゐるのに対して、もう一方の神は、
「幸福になりたいなら、幸福でゐなさい」
と勧めてゐる。

前者の主張は分かりやすい気がする一方、後者の言ひ分は何だか腑に落ちませんね。それで、ニールの神は別のときに、もう少し詳しく説明してゐます。

あなたが経験する行為はあなたの存在から生じるのであって、行為があなたを存在に導くのではないということだ。あなたが最初に「幸福」であれば、幸福だから何かをすることになる。幸福になりたいから何かをすると言う古いパラダイムとは逆だ。… 「行為」によって「存在」に行き着くことはできない。

二つの主張を簡単に図で示せば、

『講論』:行為(努力)➡ 存在(幸福)
ニールの神:存在(幸福)➡ 行為

といふふうになるでせうか。

どちらが理に適つてゐると思はれますか。

努力なしに、幸福が得られるでせうか。そんな虫のいゝ話など、あるはずがない。私は長い間、この考へ方でした。

自分自身を見れば、確かに内部に本心と邪心との闘いひがあるやうに感じられる。このまゝでは自己矛盾だから、安息があるはずがない。何とかして邪心を排除し、本心のみに従つて生きる努力を精一杯しなければ、真の幸福はあり得ないだらう。大抵の人は、こちらに賛成の一票を投じられるでせう。

ところが、ニールに語りかける神は、
「それは古いパラダイムだ」
と言ふ。

古いか新しいかは別にして、この二つのパラダイムを比較しながら、幸福の真相にできるだけ迫つてみませう。

『講論』の言ふ「本心が喜ぶ幸福」とは、一体何でせうか。これを得るとか実現するなどと表現するのですが、より事実に即して言へば、「自分は幸福だと感じる自分になる」といふことでせう。

「幸福の実体」あるいは「幸福な状況」といふのが、私と別に存在するわけではない。「これがあれば私は幸福だ」と言へるやうな、何か客観的なものがあるのではないのです。

ところが実際には、我々は何らかの状況が実現すれば幸福になれるのにと、つい思ひ込んでしまふ。

例へば、
「夫がこんなふうに変はつてくれたら、どんなにいゝかしら」
とか、
「年収がもうあとこれくらゐ増えたら、いふことないのに」
などと思ふ。

ところが、夫のこゝが良くなつても、あそこはまだダメと満足はお預けになるかもしれない。年収も1億円なら幸福で、それ以下なら不幸といふこともないでせう。本人の内心を問へば、むしろ反対のことだつてあり得ます。

つまり、「幸福」といふのは、何らかの状況でも、行為でもない。状況や行為とは別の、「私の中の意識状態」なのです。あるいは、どんな状況でも幸福だと感じる、私の心の構造だと言つてもいゝ。

とすれば、さういふ心の構造を作ることが「幸福」の必須要件だといふことになります。

ニールの神はそれを指して、
「幸福になりたいか。では、幸福でゐなさい」
と教へてゐるやうに思へてきます。

「幸福でゐる」ための「心の構造を作る」ことは、行為ではありません。さまざまな体験は必要かもしれないが、それは「幸福になる」ための行為とは言へない。

何だかくどくどしくなつてきましたね。しかし、これを言ふのは、何も「行為」の価値を否定したいからではありません。我々は従来、「幸福」の第一要件として、「行為」ばかりをあまりにも重要視し過ぎてきたのではないかといふことへの再考を促してみたいとの意図があるのみです。

「行為」ももちろん必要ではあるものゝ、それと同等か、もしかするとそれ以上に重要なのが、「意識(心の構造)」を変へていくことではないか。そのことに目を向けてみたいのです。

「行為」は「意識」を変へることができるか。不可能ではないにせよ、さほど強い力にはならない気がする。反対に、「意識」が変はれば、「行為」が変はるのはほぼ必然と言へるでせう。

「意識」を変へるには、どうしたらいゝでせうか。それについては、また改めて書くことにします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



kitasendo
Admin:kitasendo