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原理結果主管圏に見る神の事情

kitasendo
2023-11-24

万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。
(『原理講論』創造原理第5節)

神はなぜ、被造物に成長期間といふ名の間接主管圏を置かうと発想したのか。その神の事情について考へてみようと思ひます。

万物は原理自体の主管性や自律性によつて成長完成する。この場合、神が原理の主管者であり、万物がその原理以外では成長も完成もしないのであれば、万物はその原理から外れないといふことであり、神は主人の位置を保持できます。

ところが、問題は人間の場合です。

人間は原理の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担によらなければ成長も完成もしない。この場合、神は原理の主管者であるとしても、人間の責任分担においては主人ではない。強いて言へば、その部分において神は人間の僕だと言つてもいゝでせう。

主人であれば、
「私の考へはこれこれであるから、お前もそれに従ひなさい」
と命令できるのですが、僕になれば、そんなことは言へない。

むしろ、人間のほうが、
「私の考へはこれこれであるから、神はそれに従ひなさい」
と言へば、神もそれに従ふしかないのではないでせうか。

これはかなり深刻な問題です。

そんな原理を神は自ら創つたのでせうか。どうも、そのやうにも思へます。

間接主管圏は、別名「原理結果主管圏」とも呼ばれます。

どういふことかと言へば、
「神は被造物が原理によつて成長する結果だけを見る」
といふことです。

「結果だけを見る」とは、その結果を出すプロセスは見ない、一切口を挟まないといふことです。この言葉からの印象では、神はなんだか被造物を突き放してゐるやうにも感じられます。

「お前が自分でやつてみなさい。私はその結果だけを見て評価するよ」
といふふうに言はれてゐる感じです。

しかし、神の心中を慮れば、そんな単純な話ではない。非常に深刻な事情がありさうです。

神には神なりの理想があるのに、結果だけを見ると言つたがために、その理想と真逆の結果が出てきたときは、一体どうするのか。しかも実際、事実はそのやうになつてしまつたと見られるのです。

「取つて食べない」のが神の理想であり願ひであつたが、結果はその真逆であつた。しかし、取つて食べようとする行為を神はとめなかつた。原理結果主管の原理があるからです。

そしてさらに、取つてたべたあとも、神は自分の理想を言ふのではなく、
「あなたは取つて食べたのか?」
とアダムに訊いただけなのです。

これは、どういふことでせうか。

神は人間が選択すること、そしてその結果に対して、絶対服従するといふことです。これがあまりにも徹底してゐます。

文鮮明先生は、
「『従順』には私心があるが、『服従』には私心がない」
と言はれ、二つの態度の違ひを明確に区別されたことがあります。

絶対服従する神には、私心が一切ないといふことです。しかしこれは、あまりにも苦しいことでせう。

「神はなぜそんな苦しい原理を自ら設定されたのですか?」
と訊いても、
「それが神の本性だから、さうするより他の選択はなかつたのだ」
といふ答へになるしかなささうです。

さういふ本性を持つたかたが神であり、そのかたが我々の親だといふことを考へてみる必要があります。

我々自身が子どもを生み、親になつた場合、同じ原理で生きることができるでせうか。

子どもの責任分担を認め、どんな思ひがけない結果が出やうと、その結果だけを見て、
「私はあなたの選択に絶対服従する」
と言へるでせうか。

思ひがけない結果が出さうになる前に口を出して阻止しようとするか、あるいは、出た結果を認めないで、原理結果主管の原理を放棄するか。どちらかになりさうです。ともかく、絶対服従は限りなく難しい。

神が人間の親であるといふことと、神が原理結果主管圏を置いて絶対服従しようと決めたことの間には、必然性があるでせう。神はこの原理を嫌々決めたのではない。真の親にならうとするなら、さうするしか他の道はなく、決然とその道を選択されたと考へるしかありません。

今の私にも神は変はらず絶対服従しておられると思へるのですが、私はその神を苦しめてゐるのか、それとも歓喜させてゐるのか。もし前者でも、神は変はらないので、私が変はることを考へなくてはなりません。

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