fc2ブログ
line-height:1.2;

一切の評価をやめる

kitasendo
2023-11-23

あらゆるものを「評価」なしに見つめることができたら、どうなるでせうか。

人は1日に4万から6万くらゐの思考が頭の中を去来してゐると言はれます。本当にそんなにあるだらうかと思ひますが、ときどき自分を観察してみると、まんざら誇張でもないやうな気がします。

例へば、車を運転してゐます。瞬間瞬間に新しい光景が目に入つてきますね。道路の路面の状況。前後左右の車や人の動き。随所に設置されてゐる道路標識や信号。

さういふかなり厖大な情報を処理しながら運転してゐます。そして気をつけて自分を見てゐると、私は情報処理をするときに、かなりの割合で「評価」してゐるのです。

例へば、路面が一部だけ舗装修復されてゐるのをみれば、
「この自治体は予算にゆとりがないのだらうか。今後20年もたてば、もつとゆとりがなくなるかもしれない」
などといふ「評価」が瞬時に浮かびます。

十字路に差しかかる直前に信号が赤に変はると、
「あゝ、今日はちよつと運が悪いやうだ」
と思ふ。

そんなふうに自己観察をすると、私たちは日常、ただ単に情報を五官から取り入れているだけではない。大抵はそれに何らかの「評価」を加へて情報処理してゐることに気づきます。

人と話してゐるときなどは、これがもつと顕著です。相手の言葉や態度ひとつにも、その人の考へを推測し、それが自分にとつて「好ましい」か「好ましくないか」を評価しながら応接してゐます。

かういふあらゆる「評価」が自分の内から消え去つたらどうなるだらうか。それがこの記事のテーマです。

4万から6万の思考が、頭の中から消えるのです。非常に静かになるでせうね。1日中重機の音が響く工事現場の喧騒の中にゐた人が、急に物音ひとつしない夜の静寂(しじま)の中にワープしたやうな感じです。

一切の「評価」がない、静寂の世界。

これを私がなぜ夢想するかと言へば、聖書にこんな言葉があるからです。

主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。
その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。
しかし主は風の中におられなかった。
風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。
火の後に静かな細い声が聞こえた。
(列王紀上19:11)

これは、預言者エリヤが神の声を聴いたときの体験です。

神は嵐の中におられない。地震や燃え盛る火の中にもおられない。その声が聞こえてきたのは、荒れ狂ふすべての喧騒が去つたのちだつた。しかも、それは静かな細い声だつたといふのです。

私には、これがひとつの暗喩に思へます。

嵐や地震や燃え盛る炎は、私の中の「評価」の思ひなのです。その思ひが休むことなく浮かび続ける間は、私は神の声を聴くことができない。思ひがあまりにうるさ過ぎて、神の静かな細い声を聴き取れないのです。

私たちの日常には、思ひがあまりに多すぎる。しかも、その思ひは必要だと思つてゐる。

「目の前の懸案は、早く適切に判断して処理しなければならない」
と思ふので、頭をフル回転させます。

過去の経験、知識、他人からの助言などを総動員します。それらをもつて適切に「評価」し、判断しようとするのです。

しかしさういふとき、私の「評価」に紛れ込むのは、私の好き嫌ひであり、損得勘定であり、自己弁護でもあつたりするのです。ところがこれらはほぼ無意識なので、往々にして、それに気づかないか、気づかないふりをする。

多くの場合は気づかないが、少し気づいても、気づかないふりをして、自分の「評価」に自分の内で「裁可」のハンコを捺してゐる。私の中には、さういふ「評価」が溢れてゐる。これが、神の小さな声を聴こえなくする喧騒なのです。

それで私が思ふに、神の声を聴き取るためのショートカットは、自分の中から「評価」を消し去ることではないか。それが目下の私の問題意識なのです。

「評価」をしないとはどういふことでせうか。ものごとを一つの現象として、フラットに受け取るといふことです。

例へば、誰かに喜ばしいことがあつたとしても、それを羨まない、妬まない。こゝでは、「喜ばしいこと」といふのも「評価」なので、ふつうなら、それをすぐに自分自身と比較してしまふ。それで「羨ましい」といふ感情が湧いてきます。

ところが、それをフラットに受け止めれば、「羨ましい」といふ感情を誘発しない。ただその人が嬉しさうだといふ情報処理だけがなされます。

それだけなら、何だか無感情になりさうです。しかし「評価」といふ喧騒が鎮まると、神の細い声が聞こえてきやすくなるのです。

例へば、
「あの人、嬉しさうで、よかつたな」
といふ感情が湧いてくるのを感じる。

この感情は、自分の「評価」の思ひから湧いてくる感情と、どこか違ふ感じがするのです。

聖書の「創世記」に、カインとアベルの供へ物の物語があります。弟のものだけが受け取られ、カインのものが無視されたやうに見えたとき、カインは憤ります。

それに対して、神が助言をしておられる。

なぜあなたは憤るのですか。なぜ顔を伏せるのですか。正しいことをしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。
(創世記4:6-7)

これも、読み方を工夫してみると、
「あなたは自分の『評価』を収めてみなさい。すると、そこには、受け取られた供へ物と受け取られなかつた供へ物があるだけです。憤るやうな理由がどこにあるのか」
といふふうにも理解できます。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



kitasendo
Admin:kitasendo