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見えない愛は、もつと高くて深い

kitasendo
2023-11-21

愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。
見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神様は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。
(『天聖経』「真の愛」第二章 愛の実際)

これはなかなか含蓄の深い言葉です。私自身、この境地にはまだほど遠いところにゐると知りながら、それでも考へてみます。

愛には二種類ある。見える愛見えない愛です。

見える愛といふのは、何かしてもらつたことが分る愛です。お母さんが赤ん坊にお乳を飲ませてあげた。子どもがお父さんの誕生日に、お小遣ひをはたいて初めて誕生日プレゼントを買つてあげた。

さういふ愛は、行為として現れるので体感できる。そして、「ありがたいなあ、うれしいなあ」といふ感謝や喜びも湧いてきます。

ところが、それよりも見えない愛のほうが、もつと高く、広く、深いといふのです。見えない愛とは、与へてもらつたのに、それが分からない愛です。

例へば、神にお乳を飲ませてもらつたといふ体験のある人はゐないでせう。お腹が空いてゐても、お菓子をくれたこともない。

神は見えない。そして、神の愛も見えない。しかしそれでも、お乳を飲ませてくれるお母さんの愛よりも、もつといゝといふのです。

愛を直接もらつた実感もないのに、もつといゝとは、どういふことでせうか。

まづ、なぜ神は見えないのかについて考へる必要があります。

神が見えないのは、見えないところにいらつしゃるからです。それなら、それは一体どこでせうか。

「見えない、静かな世界」
です。

私たちの意識で言へば、自分でも気がつかないところ、つまり深い深層意識(無意識とも潜在意識とも言ふ)の中におられる。

私たちが見える(意識できる)のは、文字通り、表層意識だけです。プレゼントをもらつたら「嬉しい」と感謝し、きれいな花を見たら「きれいだな」と感動する。それが表層意識です。

ところが、たいていの心理学者は、さういふ表層意識は人間の全意識のわづか5%程度に過ぎないと言ひます。大半の残り95%は、意識されない領域だと考へる。それが意識されないのは、文字通り、潜在してゐるからです。

そこでこゝからは、私に見える(気づく)意識を「顕在意識」、見えない(気づかない)意識を「潜在意識」と呼ぶことにしませう。

顕在意識から潜在意識へアクセスすることは、ふつう、できない。それが証拠に、次の瞬間、私の心にどんな思ひが浮かぶか、自分でも予測できないでせう。

思ひは潜在意識から顕在意識へ浮かび上がつてくるのですが、潜在意識の中で何がどう動いてゐるのか、さつぱり分からないので、顕在意識には予測が立たないのです。

それでも私がちやんと生きていけるのは、潜在意識が見えないところできちんとその機能を果たしてくれてゐるからです。肉体的には、食べたものはお腹で消化して、排泄まで準備してくれる。起きてゐるときばかりか、寝てゐても、呼吸は止まらず、一定のリズムで続いてゐる。

心的には、日々生まれる体験を記憶として整理しながら貯蔵してくれる。必要に応じて、その中から現在の判断に必要なものをさつと提供してくれる。

さういふ、顕在意識ではとても手に負へないやうな複雑で高度な作業をこなしてくれてゐるのが潜在意識です。神はその領域を自らの住居としておられます。だから、私は肉体的だけではなく、心的にも、不断に神に生かされてゐると言つておかしくない。

ところが、その神の働きは、潜在意識にアクセスできないのと同様、顕在意識で把握することができないので、私に神は見えない。

それで、
「神は見えない、静かな世界におられる」
といふことになるのです。

しかし、潜在意識は意識されないところで働いてくれてゐるからいゝのと同様、神も見えないからいゝのです。だから、神は見えないし、見えないから、見えるよりももつと価値が高い。

与へてゐるのに、相手は一向に気づかない。それでも弛まず与へ続けることが、私たちにできるでせうか。とてもできさうにない。しかしそれを実践してゐるのが神だといふのです。

さういふ神に近づく、唯一の方法があると言ひます。

それが、
「無我の境地に入る」
といふ方法です。

これはどういふことでせうか。

「無我」とは、「私」がない、つまり、「私」といふ顕在意識のない状態だと思はれます。顕在意識を離れ、より深い潜在意識の中に潜入していく。すると、そこに住んでおられる神に近づくことができる。

それが「無我の境地に入る」といふ方法ではないかと推測します。

尤も、「顕在意識を離れる」といふこと自体が、難しいのですね。この境地を求めて、古来多くの修道者たちが苦行の道を自ら志願して生涯歩んだわけでせう。

今の私は、潜在意識へ入るその入り口を、離れたところから眺めてゐるといつた状態です。大体の位置は目算してゐるのですが、簡単には近づいて足を踏み入れることができない。

ただ、努力はしてゐます。顕在意識が我知らず嵌つてゐる罠、「自動思考」から抜け出ることです。これができれば、入り口の前に立つくらゐまではできるのではないかと思つてゐます。

これについては、以下の記事とYoutube動画を参考にしてください。

「思考」がある日突然、消えた



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Admin:kitasendo