fc2ブログ
line-height:1.2;

なぜ神が迫害するのか

kitasendo
2023-11-20

1ヶ月ほど前、「誰が迫害するのか」と題する記事を書きました。

具体的な内容はその記事をお読みいたゞきたいのですが、ポイントは、
「現在、家庭連合に吹きつけてゐる暴風の主は神ではないか」
といふことです。

その記事に対しては、
「もしさうなら、家庭連合は何が間違つてゐたと考へるのか」
といふ質問のコメントもいたゞきました。

即座に答へることを控えておりましたが、最近ひとつの答へが固まりつゝあるので、現段階での考へを記してみようと思ひます。ただひとつ、あらかじめお断りしておきたいのは、連合を組織的に批判する意図はありません。あくまでも、私個人の問題意識として考へてゐることです。

その問題意識とは、端的に言へば、
「理論的な原理に偏重しすぎたのではないか」
といふことです。

原理講論』の「総序」に次のやうな一節があります。

堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。

こゝに『講論』全体の基本思想が現れてゐるやうに見えます。

つまり、人は堕落によつて無知に陥り、霊的に死んだ。ゆゑに、再び生きるには知(特に内的宗教的な知)を取り戻さねばならない。さういふスタンスです。

「総序」で、「新しい真理」の出現といふことが繰り返し強調されてゐるのは、その思想に由来してゐるのでせう。そして実際、『講論』全体は、真理らしく、きわめて理論的に構成されてゐます。

私などには、それが大きな魅力でした。特に『講論』の後編にまとめられた「摂理的同時性」などは圧巻で、とても否定しやうがないほど完璧な真理に思へたものです。

だから、
「これは信ずるに値する」
と思へた。

ところがこゝには、思ひがけない陥穽もあつたやうに、今にしてみれば思へるのです。どのやうな陥穽でせうか。

神が、「原理の神」に見えるのです。

「創造原理」では、
「神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見る…」
といふ記述がある。

また、「堕落論」には、
「神は創造原理の絶対性と完全無欠性のために、未完成期にいた彼らの堕落行為に対して干渉されなかった」
といふ記述がある。

もちろん、実際の信仰生活においては、原理の神ではなく、愛の神を体験することもあるでせう。しかし、『講論』から入つた信仰には、無意識の裡に、「原理の神」といふマインドセットがなされてゐるやうに思はれるのです。

『講論』にはそれなりの時代的な限界と目的があつたでせう。それはそれでよいと思ふ。ただ、その限界と目的をよく弁えへた上で、事態をより俯瞰する必要もあると思ふのです。

「原理の神」が前提となると、この世界は、原理に従ふ「善」と、従はない「悪」とに分かれる。神が最初に、アダムの子どもたちを善(次子アベル)と悪(長子カイン)とに分けてから摂理を始められて以来、歴史の中にはつねに善と悪があり、悪が善に屈伏してこそ摂理が成就する。さういふ、二極対立の思考方式になります。

復帰摂理の途上においては、さういふ思考方式も有効な(あるいは必要な)一面があつたでせう。しかし、それはやはり神の本質を見誤つてゐる。神の本質は「原理」ではなく、「愛」(より正確に言へば、真の愛)だといふべきだと思ふ 。

神の本質を見誤ると言つても、もともと神は目に見えない。だから事実を言へば、神を見誤るといふより、自分の良心を見誤つてきたのです。

自分の良心を本当に見れば分かるはずなのに、どうして「原理の神」を神としてしまふのか。自分の良心が十分に起動しておらず、堕落的な観念の混じつた信仰で考へるところに問題があるやうに思へます。

私の頭の中には、善と悪の観念がある。だから、神もこの世を善と悪とに分けられるだらうと考へる。自分の頭の中にあるから、神の中にもあるだらうと考へてしまふのです。

従来の良心観からすれば、良心は善と悪とを峻別する。さういふ良心があるから我々は、悪を排して善に向かはうと努力する。そのやうに考へるでせう。

しかしその良心は、『講論』でいふ良心です。「自分が善と考へるものを指向する」良心です。

それは外的な良心であり、内的な良心は『講論』でいふところの「本心」です。神の心と言つてもいゝ。良心の中には善悪があるが、本心の中にはそれがない。

原理の神なら、善や悪があつておかしくないが、愛の神なら、そんなものはあり得ないのではないか。

「私は善の神だから、悪はあつてはならない。滅ぼすしかない」
といふやうな二極対立的な思考方式は、神にはないのではないか。

ところが、良心(本心)が不活性のまゝで『講論』を学んだ私の頭で神を考へると、ズレてくるのです。しかも、そのズレになかなか気がつかない。

そこで、やむにやまれず、神の迫害が始まつた。ズレに早く気づけといふわけです。

今の事態が本当に神の迫害であるなら、実際に拳を振り上げて叩きにやつて来る人たちは、神の使ひといふべきでせう。

それなら、その神の使ひの魂胆を暴き、反撃しようとするのは、却つてズレを大きくする可能性がある。彼らは心底、家庭連合は悪い、世の中に不要だと思つて拳を振り上げてゐるのでせう。その原因を突き詰めてみれば、私が「原理の神」を奉じて、善と悪とに分ける思考と活動をしてきたからです。

「自称正義」と「自称正義」との戦ひは、泥沼にはまるでせう。

とすれば、根本的な解決策は何か。私の内的良心(本心、神の心)を起動し、頭の中から「善」と「悪」をなくし、「原理の神」を手放すことです。

人間がその無知によって、創造本然のものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向するが、本心はこれに反発して、良心をその本心が指向する方へと引き戻す作用をする。(「創造原理第六節」)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



kitasendo
kitasendo

Re: タイトルなし

非公開ながら、コメントがありましたので、記事の補足をします。
前の記事「誰が迫害するのか」でも書きましたが、「誰が迫害するのか」「迫害とは何か」といふのは、私の受け止め方だと思つてゐます。だから趣旨は、受け止め方を吟味すべきではないかといふことなんです。こちらが「善悪」でやつてきたから、相手からも「善悪」でやり返される。これなら、仕返しであり、讒訴でもありますね。それでもなほ「私が正しい」を堅持すれば、暴風はさらに激しくなる可能性がある。
私が今回の記事で言ひたかつたのは、行為による弊害もさることながら、それよりもつと奥の意識世界で神とズレてゐたのではないかといふことです。

2023年11月20日 (Mon) 13:20
はちみつ

善悪の二極化

二極対立的な思考方式は、統一教会だけではないです。
他宗教はもちろん、私人逮捕系ユーチューバー、デモ活動、学生運動なども同類だと思います。
自分達の正義に固執するあまり、自分達以外は敵(或いはサタン、左翼)と考えてしまう。
正義感に溢れるのは良いけど、側から見たらイタイ人になっていきます。
世界を見ても極端な正義感を持つ人はいますよね。




2023年11月21日 (Tue) 18:13
kitasendo
kitasendo

Re: 善悪の二極化

確かに、はちみつさんの仰るとおりですね。この世は二極対立思想の世界と言っていゝかもしれない。でもそれ以上に、原理人が二極対立思考になっているようにも思えます。

2023年11月21日 (Tue) 22:23
kitasendo
Admin:kitasendo