言葉を感覚に変換する
朝、目が覚めるか覚めないかの、まどろみの意識状態は、閃きの宝庫です。寝てゐる間に「思考」が低下して、それがまだ十分に回復して働き始める前の比較的短い間に、「思考ではないもの」がどこからともなく来るやうな気がします。
今朝も、目が覚めかけて、手でスマホを触ると、勝手にアナウンスを始めた。
「現在6時44分です。降水確率は20%。最低気温は14度の予想です」
アナウンスの言葉は耳に入つてくるのに、一瞬、
「はて、これは何だ?」
といふ感じで、意味が分からない。
数秒たつて、やつと、
「あゝ、これは現在時刻と今日の天気予想を教へてくれてゐるんだな」
と納得したのです。
何気ないことに見えます。しかし、もう少し頭が働き始めてからこの事態の意味を考へてみると、意外と面白いことが頭の中で起こつてゐたやうに思はれる。
スマホのアナウンスは、AIが作つた単なる言葉の羅列なのです。
「現在6時44分です」
といふ言葉は、時間そのものではない。
単なる言葉と数字の組み合はせだから、それ自体に意味はない。
ただ、それを聞いた人が、
「あゝ、今は夜が明けかける頃合ひだな。そろそろ起きて、朝ご飯の準備をして、仕事に出かける支度もしないといけないな」
といふやうな生活感覚を自分の内に呼び起こすときに、初めて意味が生じるのです。
「最低気温の予想は14度です」
といふ言葉も、同様です。
「14度」といふ言葉自体は、寒くも暑くもない。
ただ、それを聞いた人が、
「あゝ、この夜明け方も冷えるし、今夜もだいぶ冷え込むやうだ。もうそろそろストーブの必要になるかな」
といふやうな体感を呼び起こすことで、初めて意味が生じます。
これは一体、どういふことでせうか。
言葉それ自体には時間の流れもなければ、暑さも寒さもない。さういふ言葉を、我々は話したり聞いたりしながら、それを頭の中で感覚に変換したり繋げたりする処理をしてゐます。そこに言葉の価値と働きがあるのです。
言葉を感覚に変換するとき、頭(脳)の中では負荷がかゝる。その仕組みはパソコンに似てゐます。パソコンは「0」と「1」といふそれ自体では意味のないデジタル情報を処理して、画像にしたり文字にしたり音声にしたりするのに、電気を使つてCPUを動かしてゐます。
起きがけに、特定の波形をもつた空気の振動が私の耳に入つた。その意味を理解するのにタイムラグが生じたのは、私の脳のCPUがまだ十分に起動してゐなかつたからでせう。しかし一旦脳がフル稼働し始めれば、言葉を感覚に変換するのに、さほどの負荷を感じなくなる。それで普段の生活では、我々は難なく言葉を介して他人とやり取りができてゐるのです。
つまり、今朝の気づきは何だつたか。
「言葉を理解するためには、実体のない言葉を感覚に変換する必要がある」
といふことだつたのです。
ところが現実には、この変換をしないまゝに言葉を使ふことが多い。それで自分の生き方も人間関係も、極めて概念的になつてしまつてゐる。さういふ気がしてなりません。
具体的な話がうまくできないので、今思ひつく例を一つだけ挙げてみます。
聖書を見ると、イエス様のかういふ言葉が記録されてゐます。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。 (ヨハネによる福音書4:6) |
こゝでイエス様は、
「私の語る言葉が道であり、真理である」
とは言つておられない。
これは、
「私自体が真理である。だから、私の言葉を信じて従ふのではなく、私を見てあなたの生き方を考へなさい」
といふ考へのやうに思へます。
ところが、そののちの弟子たちも教会組織も、イエス様自体よりも、イエス様の遺された言葉、そしてそこから自分たちが解釈した概念をもつて教へ、教育しようとしてきた。それによつて、信仰は次第に概念化してきたのではないか。そして、時間がたてばたつほど、信仰は高い概念の塔のやうになり、元の「イエス様自体の感覚」が分からなくなる。私にはそのやうに思へるのです。
これはまだ、あまりに説明が拙いので、私の考へがもう少しまとまれば、また記事にします。

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