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みんなちがつて、みんないゝ

kitasendo
2023-11-07

神様の目には、人種の色の違ひは見えない。

さういふ意味の文鮮明先生のみ言葉を、どこかで読んだ記憶があります。この言葉は、どう理解したらいゝのでせうか。

色彩豊かなこの世界の創造主ご自身に色の違ひが識別できないとは思へません。これは我々にとつてもかなり重要なことなので、注意深く考へてみませう。

この世界には色彩があると、我々はふつうに考へてゐます。木々の葉つぱは緑晴れた空は青夕日は赤。といふふうに。

自然物ばかりではない。人間は人工的にも微妙に違ふ色を作つて、絵画を始め、さまざまな造形物を創造する。

ところが、よくよく考へてみると、これらのもの自体に色があるのではない。ものはそれ独特の振動波を発し、それを我々の目で受信して、電気信号として脳に送る。すると、あら不思議、葉つぱは緑に見え、夕日は赤く見えるのです。

大抵の人は、「緑」とか「赤」といふ言葉で通じて、大きな齟齬をきたさないから、お互ひに同じ色を見てゐるものと思ひ込んでゐます。しかしそれは同じ色を見てゐるといふより、同じ振動波を同じやうに受信して、同じやうに処理してゐると言つたほうが真実に近いでせう。

さうだとすると、木の葉つぱが必ずしも「緑」である必要はなく、夕日が「赤」である必要もない。葉つぱが出す振動波を受信して、それを「赤」と処理しても、おかしくはない。葉つぱの振動波と夕日の振動波は異なつてゐるでせうが、処理過程においてそれらを同じものとして出力すれば、葉つぱと夕日は同じ色になることも可能だと思はれます。

神自身がかういふ処理をされて森羅万象を見ておられるとするなら、神には皮膚の色の違ひは見えないといふのも、合点がいく話です。

それは何かと言へば、
「私は、人間の肌の色については、すべて同じやうに波動処理する」
と、神自身が決めてしまへば、色の違ひは分からなくなるといふことです。

自由に設定できるなら、人間の肌の振動波は「すべて茶色」といふふうにしてもいゝ。さうすれば、肌の色による差別などといふものも、生じやうがないことになります。

問題は、神にならそんなことができたとしても、我々人間に同じことができるかといふことです。多分、人間自身の力では無理でせう。なぜかは分からないが、特定の波長は何色に見えるといふふうに、初期値で処理設定がなされてゐます。

ものの「色」をはじめとして、すべすべ、ざらざら、固い、柔らかい、などと言つた「質感」のことを、「クオリア」と呼びます。これは今なほ議論の多いところですが、脳科学者の茂木健一郎さんは、こんなふうに書いてゐます。

脳内にあるニューロンの発火パターンが生じた時に、私たちの心の中にどのようなクオリアが生じるかという対応原理は、実際には極めて厳密なものであると考えられる。

つまり、色の認識といふものも、脳内のニューロン活動に伴つて生じるのではないかといふわけです。そして、さう言つたあとで、次のやうに問題提起します。

もしクオリアに関して物質的過程でない「隠れたパラメータ」を主張するならば、それは「心脳二元論」を唱えているに等しい。

茂木氏の言ふ「隠れたパラメータ」が、もし仮に神の関与するところのものであるとすれば、これは「心脳二元論」といふより、さらに非科学的な(やうに見える)「神脳二元論」と言つてもいゝものになりさうです。

神には、この「隠れたパラメータ」があるのでせうか。

もしあるとすれば、
「肌の色が、白、黒、黄色に見えるはずの波動を発してゐても、違つた色に認識できない」
といふパラメータでせう。

いや、もう少し正確に言ふなら、
「違つた色に見えてゐても、その色に優劣をつける意識が働かない」
といふパラメータと言ふべきでせうか。

だから、神には千差万別の色の違ひは鮮明に見えてゐるでせう。しかも、人間の視覚情報を通じて見てゐる。逆に言へば、神は千差万別の色の違ひを楽しみたいがために、人間に色の違ひを識別する高度な感覚を与へた。

とすれば、我々はむしろ、色の違ひを精密に識別できる必要がある。すべての肌の色を「茶色」に見るなどといふのは、まつたくあり得ない、味気ない話です。

それよりも大切なのは、我々はいかに神の「隠れたパラメータ」を自分のうちで起動させるかです。

「色の違ひと色の優劣を切り離すパラメータ」

これを、どのやうに起動できるでせうか。

起動できれば、金子みすゞの詩にあるやうな
「みんなちがつて、みんないゝ」
といふ無差別感覚で対応できる自分になれる可能性がある。

結局、識別能力は高くありながら差別感覚のない神に私が似ればいゝといふことです。

「肌の色、みんなちがつて、みんないゝ」
「子どもたちの性格、みんなちがつて、みんないゝ」
「同僚たちの考へ方、みんなちがつて、みんないゝ」

決して容易に到達できさうな境地ではありませんね。

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