凹、バンザイ!
誰にでも、強みと弱みがある。本人が「これは自分の長所だ」と思ふ点と、「これは自分の短所だ」と思ふ点とがある。
つまり、誰もが
「私は完璧ではない」
と思つてゐる。
さうは思つてゐても、ついつい自分の弱み、自分の短所は他人に見せたくない。どうしても隠したくなる。
そして、できるだけ自分を
「完璧に近い自分」
に見せたいと考へるものでせう。
例へてみれば、誰でも自分を「完璧な丸」のやうに演出したい。しかし実際には、凸(デコ・長所)と凹(ボコ・短所)の混ざり合つた、「完璧な丸」からは程遠いかたちをしてゐるのです。
凸凹の我々は、努力して「完璧な丸」を目指すべきでせうか。それとも、凸凹のまゝでいゝのでせうか。
私は最近よく、
「あるがまゝ、ありのまゝ」
といふことを考へるのですが、自分が凸凹なら、その凸凹のまゝでいゝのではないかといふ考へに傾きます。
いくつか例を挙げてみませう。
か弱いロボットを開発する技術者がゐます。例へば、「介護ロボット」と言へば、弱つた老人を助けてくれる、頑丈で、力強いロボットをイメージするでせう。さういふロボットでなければ、作る意味がないと、ふつうには考へます。
ところが、そのか弱いロボットは、何の介護もしてくれない。歩行を助ける杖にもなつてくれない。
それなのに、そのロボットを介護施設に持ち込むと、お年寄りたちが列をなして、そのロボットを使ひたがるといふのです。
ロボットと一緒に歩く。するとそのロボットは、腕を差し出すが、歩行者を支へてくれるのではない。むしろ反対に、老人がそのロボットの手を引いて歩かなければいけないのです。
そんなロボットの、一体何が魅力で、お年寄りたちは使ひたがるのでせうか。
か弱いロボットは、凹なのです。それまではお年寄りも自分のことを、体力も気力も衰えた凹だと思つてゐたのに、それ以上の凹が目の前に現れると、我知らず、自分が凸になつてしまふのです。
このとき、人によつては、自分がもう少し元気だつたころ、孫の手を引いて歩かせてゐたことを思ひ出すのかもしれません。誰かを助けてゐたときの自分を思ひ出すのです。
つまり、凹がゐると、それを助け、埋め合わせようとする凸が現れる。これは、宇宙の陽陰の法則にも当てはまるやうに思はれます。
これはロボットだけではない。
生まれたばかりの赤ん坊はみな、凹でせう。自分では食べることもできない。歩くこともできない。何から何まで他人にやつてもらわないと、すぐに死んでしまひます。
そんな危険な状態で生まれてくるのは、どう考へても自分のためではない。凸を作り出すためです。
つまり、凹の赤ん坊が生まれた途端、お父さんもお母さんも凸になる。
「この子のことは、何が何でも世話してやらなければ」
といふ思ひに、我知らずならざるを得ない。
赤ん坊は、お父さんお母さんを凸にするために、ざわと無力な凹で生まれてくるのです。
もうひとつの例(話が少し飛躍するやうですが)を考へてみませう。
よく、
「神は完璧。完全無欠。全知全能」
と言ひます。
それは「完璧な丸」といふことです。
それはそれで、素晴らしい、羨ましいことのやうですが、当の本人にしてみれば、何か物足りなかつたのでせう。わざと、「完璧ではないもの」を創り始めました。
あらゆる被造万物も、そして最後に造られたといふ我々人間も、すべて「完璧ではないもの」です。智恵も身体能力もごく限られてゐる。光も音も、ごく狭い範囲しか感受できない。三次元空間では、移動するのも楽ではない。
ところが、さういふ凹が出て来てくれることで、神は初めて凸になれる。
「凹を埋めてやれるのは、こんなにも刺激的で、嬉しいことなのか」
といふ実感を初めて味はふことができます。
完璧な丸である神には、不完全な凹なしには喜びがないのです。
かう見てくると、我々は自分の凹を隠す必要がない。むしろ、凹があることを誇るべきだ。凹のお蔭で凸の意義が出てくるからです。
「私、これ苦手です。誰か、助けてくれる人はゐませんか?」
そのやうに発信すれば、か弱いロボットにお年寄りたちが群がるやうに、多くの凸が現れ、凹を助けることで喜びを感じるやうになるのではないでせうか。
反対に、どこかに凹を見つければ、飛んで行つて自分が凸の役を果たすこともできる。それは謂はば、自分だけで「完璧な丸」にならうとしないで、凸と凹がお互ひ協力し合つて、ひとつの「完璧な丸」にならうとする喜びの道かもしれない。

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