見えないものは、見えるものより大きい
前の記事「心が体の中にあるか、体が心の中にあるか」で、
「体が心の中にあると思はれる」
と書きました。
今回は、こゝからさらにビジョンを広げて、
「見えないものは、見えるものより大きい」
といふことを考へてみたいと思ひます。
体が心の中にあるのだとすれば、当然、心は体より大きい。だから、私の心の喜びも憎しみも、私の体を通して現れる。
ところが、私の心よりもさらに大きいものがある。それが、集団の心、もつと言へば、人類全体の心です。
心理学者のユングが言つた、
「集合的無意識」
といふやうな概念は、これに当たると言つてもいゝかと思ふ。
だから、その大きな心(集合的無意識)は、個々人の心を通して、その体に現れるのです。
こゝから先は私の妄想に過ぎないかもしれないが、人類全体の心よりもさらに大きいのが、宇宙(の心)です。そしてそれをさらに包み込むのが、天宙(の心)です。天宙とは、この有形の宇宙と無形の宇宙(霊的な世界)を合せたものの呼び名です。
そして、その天宙を包んであまりあるのが、神の心です。神の心は宇宙や天宙を包み込むほどに大きい。すべての現象世界は神の心の中で生滅したり運動したりしてゐる。さういふ感じです。

我々はふつう、自分(たち)が宇宙の中に生きてゐるといふことは納得できる。
だから、誰かが、
「宇宙はあると信じる」
と言つても、
「それは一体どこにあるのか。見せてみよ」
と問ひ詰める人はゐないでせう。
ところが、誰かが、
「神は存在すると信じる」
と言へば、
「それは一体どこにゐるのか。見せてみよ。さうしたら信じる」
と反論する人がある。
そのとき、反論する人は、
「私も宇宙も存在してゐる。神が存在するとすれば、神はこの宇宙のどこに存在するのか」
といふ思考形式に支配されてゐると言つていゝでせう。(神を信じるといふ本人でも、実は、同様な思考形式を持つてゐる場合が多いやうに思はれます)
しかし、この反論にはまともに返答することができない。なぜと言つて、神はこの宇宙のどこかに存在するといふやうな方ではないからです。
さういふ方ではなく、むしろ我々はみな、宇宙もろとも、その方の中に一緒に生きてゐる。我々全員を包み込んでゐる存在を見せろと言はれたつて、そんなことはできない相談なのです。
より大きなものは、その中に含むものに浸潤する。あるいは、そのものを通して形を現さうとする。
つまり、神は天宙や宇宙を通してご自身を形として現さうとするのです。そして究極的には、人間の心を通して、人間の体の中にご自身を現さうとする。
だから、聖書では、
「神はご自身の『かたち』に似せて、ひとを造つた」
と言ひ、イエス・キリストは、
「私を見た者は、神を見たのである」
とも言つたのだと理解できます。
どうしたつて、私を包み込む神を見ることはできない。包み込まれたものを通して、包み込むものを推測するしかないのです。
ところで、これは私の夢想ですが、神をも包み込む、より大きな、究極的なものがある。
それを、
「真の愛」
と言つてもいゝのではないかと思ふのです。

さうだとすれば、神も真の愛の現れだと言へます。真の愛が神といふかたちをとつたと言つてもいゝ。神は二性性相だとも言ふのですが、それも真の愛が神として現象化した、そのかたちです。
そして、これは我々人間にとつて重要なことなのですが、我々は何段階もの包み込むものを通して「真の愛」が自らの内に浸潤した、最終的な「真の愛の結実体」と言つてもいゝ存在だといふことになります。
これは、何を意味してゐるでせうか。
我々は運命的に、「真の愛」の外に出て存在することのできないものだといふことです。そして、「真の愛」の側から言へば、我々人間を自分の内部に留めておくしかないといふことです。
さうだとすると、その「真の愛」の本質的な特徴とは、一言で言つて、かうなるでせう。
「すべてのものを、どんなものでも、自らの内に受け入れる」
つまり、いかなるものも、決して排除しない、あるいは、できない。なぜなら、「自分の外」といふもの(概念)はないからです。
これこそが、神観の核になるのではないかと思ふ。キリスト教でも原理でも、人間は堕落したと言ふ。しかし、たとい堕落したのだとしても、神の包み込みの外に出ることはできないのです。つまり神は、どんなものも排除せず、同じやうに包み込む。
神様の本質には、怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです。 (「真の神様」第二章 神様と創造の役事) |
この文先生のことばは、私の夢想がまんざら根拠のない夢想でもないことを支持してくださつてゐるやうに思へます。
すると、「神のかたちに似せて造られた」と言はれる我々においても、本当に似た者となるには、どうすべきか。「あらゆるものを受け入れる」といふ道を行くしかないでせう。「怨讐」の概念があり、「悪」の概念がある限り、神への道はまだまだ遠いと言はねばなりません。

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