心が体の中にあるか、体が心の中にあるか
一体、心が体の中にあるのか、それとも、体が心の中にあるのか。
心も体も、考へ詰めていくと、思ふほど単純なものではないのですが、こゝではあまり厳密なことは言はず、常識的な範囲で考へてみることにします。
多分、大半の人は、心が体の中にあると考へてゐると思ふ。
だつて、私の心は私にしか分からない。人の心は私には分からない。推測することはできても、実感することはできない。だから、一人一人の体の中に、その人の心がある。さう考へるのが自然でせう。
私も昔は、そんなふうに考へてゐました。ところが徐々に、時間をかけて、むしろ反対ではないかと考へるやうになつたのです。
例へば、こんなことがあります。
私は、エレベーターの呼吸法を日課にしてゐます。喉からお腹まで、呼吸に合はせて、体の中をエレベーターが上下するイメージをします。
やり始めの頃は、そのエレベーターの上下を、頭のあたりから見下ろしてゐるといふ感じだつた。つまり、そのとき「私」といふ意識は、頭の中にあつたのです。
ところが、これを続けてゐるうちに、エレベーターの動きを自分の後ろ側、つまり背中のほうから眺めることができるやうになつてきた。それは、「私」が明らかに自分の体から離れて、自分を見てゐるといふことでせう。
それで、
「やつぱり、私の心は私の体の中にはないな」
と思ふのです。
そしてある朝、目が覚めるや否や、「さうに違ひない」といふ確信が湧いてきたのです。そのとき、私の脳裏に最初に浮かんできたのが、ハマスとイスラエルの間に勃発した紛争です。
今や、双方に相手側への憎しみがマックスに燃え上がつてゐますね。イスラエルはハマスを「テロリスト」だと詰つて、殲滅すると公言してゐる。武力ではハマスのほうが圧倒的に不利に違ひないが、簡単には引かないでせう。
戦争する人の頭の中には、憎しみは人の体の中にあるといふ考へがある。だから、自分たちを憎むテロリストを殲滅すれば、自分たちへの憎しみもこの世からなくなるだらうと考へる。
一人〇せば、一つの憎しみが消える。10人〇せば、十の憎しみが消える。そんな考へではないかと思ふのです。
ところが、それはとんだ勘違ひで、実は、人がゐなくなつても憎しみは消えない。なぜなら、心が体の中にあるのではなく、逆に、体が心の中にあるからです。
もう少しありのまゝに言へば、憎しみの中に人の体が生きてゐる。憎しみといふ目に見えない心的エネルギーが、人の体を通して現れてゐるのです。だから、人の体を消滅させたとしても、憎しみといふエネルギーは消えない。
人類の争ひは須らく、この勘違ひに基づいてゐたと言つてもいゝのではないか。そんな気がします。
今回、もし仮に、テロリストと呼ばれる人たちをすべて殲滅したとして、その地に平穏と平和が訪れるでせうか。しばらくは静かになるかもしれない。しかし恐らく、数年あるいは数十年が過ぎれば、また別の名を名乗るテロリストたちが現れるでせう。
なぜなら、憎しみといふエネルギーは、先の戦争でなくなつてゐない、むしろ一層強くなつてゐるからです。そのエネルギーは、新しい人の体を借りて、またこの世に現れ、猛威を振るふに違ひない。
国と国との大規模な戦争に限つた話ではありません。我々の日常に展開する、ありとあらゆる対立やいざこざも、同じ原理で繰り返してゐるのだと思ふ。
対立する人たちは互ひに、目の前で反対意見を述べてゐる相手を打ちのめせば問題が解決するだらうと思つてゐる。ところが、我々はみな、心の中に体を持つて生きてゐる住人なのです。心のエネルギーが変質しない限り、対立するエネルギーはまた別の人の体を通して現れるに違ひない。

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