二つの「通信線」
AI研究者、黒川伊保子さんによると、誰かとコミュニケーションするとき、男性は「事実の通信線」一本だけを使ふのに対して、女性はそれに加へてもう一本「心の通信線」を使ふのだと言ふ。女性のコミュニケーションは男性に比べて、相当複雑で高度なレベルにあるといふことです。
すると、男性が女性とコミュニケートする際、女性が今何を考へてゐるのか、どう感じてゐるのかを充分に理解できない。山登りに譬へれば、女性が八合目なら、男性は五合目。上からは下が見晴らせるが、下から上は眺望が利かない。男性はつねに、かなり大きなハンデを負つてゐるといふことです。
「事実の通信線」、「心の通信線」とは、一体どんなものか。少し具体的に見てみませう。
女性同士で話すとき、当然ながら、二つの通信線を双方が使ひます。まづ初めに「心の通信線」をつないでおいて、それから「事実の通信線」を使ふといふ、二段構への高度なコミュニケーションをするのです。
例へば、こんなふうに。
「あなたの気持ち、よく分かる。私だつて、同じ立場なら、きつと同じことをしたと思ふ。でも、それは間違つてゐるよ」
これが、基本的な女性同士の会話の構造です。最初に相手の「心」を肯定し、その上で「事実」を否定してゐるのが分かりますね。
これに対して男性は、「心の通信線」がないとは言はないが、多分かなり未発達なのでせう。それで、基本的に「事実の通信線」のみを使ふのです。
そこで、先ほどの例で言へば、
「それ、違つてる」
と、いきなり結論を出すわけです。
これが男性同士のやり取りであれば、さほど問題にはならないでせう。どちらにも「事実の通信線」しかないからです。
問題にならないといふより、むしろ、
「お前の気持ち、よく分かる」
なんて言ふと、相手は、
「何、それ? そんな面倒な共感なんて要らない」
と、却つて嫌がるかもしれない。
男性同士なら、「事実」だけでやり取りするほうが、話が早くて、気分がいゝのです。
ところが、女性を相手にこれをやつてしまふと、実に厄介なことになる。
いきなり結論(事実)を出すのは、男性にとって悪意ではなく、女性を助けてあげようとする親切心なのです。ところが、女性のほうは、「心の通信線」を「わざと」断たれたと感じ、相当なショックを受けるのです。
「一本線の単純なコミュニケーションでは、女性は決して満足しない」
このことを男性はよくよく心に留めておく必要があると、黒川さんはくれぐれも強調するのです。
私自身、かういふ男女の違ひを長い間よく弁へてゐなかつたために、どれほど女性を白けさせ、失望させてきたかと、今になつて背筋が冷たくなる思ひです。夫婦なら、この点の不満が妻に蓄積される結果、熟年離婚を言ひ出されても、決して文句は言へない(男には青天の霹靂)。
教会の牧会においても、同様の問題が生じてゐる可能性があります。しかも、その可能性は、かなり高い(と推測する)。
女性信徒が、自分の悩みを男性牧会者に相談したとします。
すると、相談を受けた牧会者は、待つてましたとばかりに、
「それはね、あなた、かういふ問題があるんだ。原理によれば、これこれかうすべきぢやないの? 必要なのは、祈り、決意、信仰、忍耐なんだよ」
と回答する。
それで、男性牧会者は、
「いや~、素晴らしい牧会ができたな。この通りにやれば、彼女の悩みは解消するだらう」
と自己充足する(私はさうだつた)。
「事実の通信線」だけで考へれば、確かに十分な回答なのです。
ところが、当の女性はどうかといふと、その「心の通信線」のない(つまり、共感のない)牧会に、深く失望してゐるのです(多分)。むしろ、葛藤が深まる。
頭では、
「アドバイスは、何となく原理に適つてゐる。その通りにしたらいゝのだらうな」
と思ふ。
ところが、心は一向に満足しない。それで、頭と心とがズレてしまふのです。
かくして、女性信者たちの中に、かなりの量の失望と不満が蓄積されてゐる可能性があります(私の推測ですが)。この不満が解放されれば、それだけでも教会の雰囲気はもつと自由になり、大きく変はるのではないか(もしかして)。
ともかくどんな場面であれ、男性が女性を前にしたとき、たとい未熟で貧相であつたとしても、ありつたけの「心の通信線」をフル稼働させるに如くはないと思ふ。

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