誰が迫害するのか
もうずいぶん昔、何十年も前のことですが、文鮮明先生の、概略かういふ預言を聞いた記憶があります。
これまで宗教は様々な迫害を受け、それを克服することで信仰を鍛へられ、成長してきたが、いづれ迫害のない時代が訪れる。そのときは、神があなたがたを迫害するやうになるだらう。 |
これを聞いたときは、
「迫害の主体が入れ替はるのか。入れ替はれば、どんなふうに変はるんだらう」
と、ただ漠然と思つてゐたにすぎない。
ところが、最近の世間の状況を見てゐるうちに、思ひがけない考へが浮かんだのです。
「神の迫害時代とは、実際に迫害の主体が入れ替はるといふことではない。肝心な点は、誰が迫害してゐるかではなく、私自身が『誰に迫害されてゐると考へるか』にある」
といふ考へです。
言ひ直せば、
「悪の勢力から迫害されてゐると考へてきた時代を、君たちはできるだけ早く卒業して、迫害はつねに神から来ると考へる人にならねばならない」
といふことです。
どんな宗教もたいてい、勃興期にはさまざまな迫害を受ける。抑圧するのは、より古い宗教組織であつたり、その時代の国家であつたりするのですが、いづれにせよ、その抑圧自体はひとつの現象にすぎない。
その現象を、かつて当事者は、
「悪の勢力、不正な力が、我々を迫害してゐる」
と解釈した場合があつた。
しかしそれは、ひとつの解釈に過ぎないので、その解釈を変へてみなさい。変へれば、今日からでも、迫害者は神に入れ替はる。すると、それまで見えなかつたものが新しく見えてくる。文先生の言ひたいのは、そのことではなかつたか。
今にして、そんなふうに思ふのです。
尤もこれは私のアイデアなので、思ひ込みの可能性はあります。それを承知の上で、考へてみませう。
「悪が迫害する」といふ認識と、「神が迫害する」といふ認識。何が、どう違ふのでせうか。これをはつきりさせるには、「迫害」といふ概念自体を、まづ検討する必要があります。
宗教は、「迫害」といふ言葉をしばしば使ひます。「弾圧」と言つたりもする。
「迫害」にしろ「弾圧」にしろ、それを言ふ人は、
「自分は正しい」
と思つてゐるのです。
「自分が正しい」の根拠は何か。「神(あるいは仏)を信じてゐる」といふのが、最も重要な根拠でせう。すると、「正しくない者」とは、「神を信じない者」あるいは「神を曲解して信じてゐる者」といふことになる。
「自分は正しい」と信じてゐる人は、「正しい者」を「正しくない者」が不当に抑圧することを、「迫害」と言つたり、「弾圧」と言つたりするわけです。すると、「正しい者」が「迫害」されるのは不当なことなので、「迫害」される者は、自分の「正しい考へ」を変へるべきではないと考へる。もし自分の考へを変へるなら、それは不当な「迫害」に負けたことになるからです。
ところが、「迫害者」が神となつたなら、どうなるか。話は違つてきます。むしろ、逆転すると言つてもいゝ。
「正しさ」を比較するなら、神以上に「正しい」かたはないでせう。そして、「正しい」はずの神が迫害するのなら、迫害される者は「正しくない」といふことになる。「不当な迫害」は今や「正当な迫害」に変はつてしまふ。それなら、「自分は正しい」といふ信念を捨てる必要が出てくるでせう。
そもそも、「正当な迫害」といふのはちよつと不自然な表現だから、「迫害」といふ表現自体を、旧時代の遺物として捨てるべきかもしれない。捨てれば、その代はりに、何と言つたらいゝのでせうか。
「愛の鞭」?
それとも、「少し手荒な、最後の仕上げ教育」?
鞭にせよ教育にせよ、それが正しい方のものと考へるなら、それを受ける者は自らを省みる必要があるでせう。
「私はこれまで、自分は正しいと信じてきたが、本当に正しいのだらうか?」
と自問してみる必要に迫られます。
鞭も教育もその目的は、対象を育て、一人前にすることです。復帰摂理の観点から言へば、堕落性を脱がせ、個性完成させることと言つてもいゝ。
「私は今、そのトラックから外れずに、前に進んでゐるか」
さう自問すると、相手のことをあれこれ言つてゐる場合ではない。
「これまで私は、かういふことを頑張つて、国と世界に貢献してきた」
といふやうな自負があるなら、そんなものは却つて重荷になるかもしれない。
さういふものをすべて、潔く捨て去つて、
「自分には、何も誇るものがない」
といふ立場に立つたら、どうなるでせう。
「今の私に、どう変はれといふのですか?」
といふ問ひかけしかなくなると思ふ。

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