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誰が迫害するのか

kitasendo
2023-10-17

もうずいぶん昔、何十年も前のことですが、文鮮明先生の、概略かういふ預言を聞いた記憶があります。

これまで宗教は様々な迫害を受け、それを克服することで信仰を鍛へられ、成長してきたが、いづれ迫害のない時代が訪れる。そのときは、神があなたがたを迫害するやうになるだらう。

これを聞いたときは、
「迫害の主体が入れ替はるのか。入れ替はれば、どんなふうに変はるんだらう」
と、ただ漠然と思つてゐたにすぎない。

ところが、最近の世間の状況を見てゐるうちに、思ひがけない考へが浮かんだのです。

「神の迫害時代とは、実際に迫害の主体が入れ替はるといふことではない。肝心な点は、誰が迫害してゐるかではなく、私自身が『誰に迫害されてゐると考へるか』にある」
といふ考へです。

言ひ直せば、
「悪の勢力から迫害されてゐると考へてきた時代を、君たちはできるだけ早く卒業して、迫害はつねに神から来ると考へる人にならねばならない」
といふことです。

どんな宗教もたいてい、勃興期にはさまざまな迫害を受ける。抑圧するのは、より古い宗教組織であつたり、その時代の国家であつたりするのですが、いづれにせよ、その抑圧自体はひとつの現象にすぎない。

その現象を、かつて当事者は、
「悪の勢力、不正な力が、我々を迫害してゐる」
と解釈した場合があつた。

しかしそれは、ひとつの解釈に過ぎないので、その解釈を変へてみなさい。変へれば、今日からでも、迫害者は神に入れ替はる。すると、それまで見えなかつたものが新しく見えてくる。文先生の言ひたいのは、そのことではなかつたか。

今にして、そんなふうに思ふのです。

尤もこれは私のアイデアなので、思ひ込みの可能性はあります。それを承知の上で、考へてみませう。

悪が迫害する」といふ認識と、「神が迫害する」といふ認識。何が、どう違ふのでせうか。これをはつきりさせるには、「迫害」といふ概念自体を、まづ検討する必要があります。

宗教は、「迫害」といふ言葉をしばしば使ひます。「弾圧」と言つたりもする。

「迫害」にしろ「弾圧」にしろ、それを言ふ人は、
「自分は正しい」
と思つてゐるのです。

「自分が正しい」の根拠は何か。「神(あるいは仏)を信じてゐる」といふのが、最も重要な根拠でせう。すると、「正しくない者」とは、「神を信じない者」あるいは「神を曲解して信じてゐる者」といふことになる。

「自分は正しい」と信じてゐる人は、「正しい者」を「正しくない者」が不当に抑圧することを、「迫害」と言つたり、「弾圧」と言つたりするわけです。すると、「正しい者」が「迫害」されるのは不当なことなので、「迫害」される者は、自分の「正しい考へ」を変へるべきではないと考へる。もし自分の考へを変へるなら、それは不当な「迫害」に負けたことになるからです。

ところが、「迫害者」が神となつたなら、どうなるか。話は違つてきます。むしろ、逆転すると言つてもいゝ。

「正しさ」を比較するなら、神以上に「正しい」かたはないでせう。そして、「正しい」はずの神が迫害するのなら、迫害される者は「正しくない」といふことになる。「不当な迫害」は今や「正当な迫害」に変はつてしまふ。それなら、「自分は正しい」といふ信念を捨てる必要が出てくるでせう。

そもそも、「正当な迫害」といふのはちよつと不自然な表現だから、「迫害」といふ表現自体を、旧時代の遺物として捨てるべきかもしれない。捨てれば、その代はりに、何と言つたらいゝのでせうか。

愛の鞭」?
それとも、「少し手荒な、最後の仕上げ教育」?

鞭にせよ教育にせよ、それが正しい方のものと考へるなら、それを受ける者は自らを省みる必要があるでせう。

「私はこれまで、自分は正しいと信じてきたが、本当に正しいのだらうか?」
と自問してみる必要に迫られます。

鞭も教育もその目的は、対象を育て、一人前にすることです。復帰摂理の観点から言へば、堕落性を脱がせ、個性完成させることと言つてもいゝ。

「私は今、そのトラックから外れずに、前に進んでゐるか」

さう自問すると、相手のことをあれこれ言つてゐる場合ではない。

「これまで私は、かういふことを頑張つて、国と世界に貢献してきた」
といふやうな自負があるなら、そんなものは却つて重荷になるかもしれない。

さういふものをすべて、潔く捨て去つて、
「自分には、何も誇るものがない」
といふ立場に立つたら、どうなるでせう。

「今の私に、どう変はれといふのですか?」
といふ問ひかけしかなくなると思ふ。

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いちご

神様の迫害なら

この度のバッシングが神様の迫害かもしれないということは旧統一教会には正さなければならない問題があったからでしょうか?
もしそうならkitasendoさんは旧統一教会にどのような問題があったとお考えか。そして、旧統一教会はこれからどう変わるべきとお考えかお聞かせください。

2023年10月18日 (Wed) 14:02
kitasendo
kitasendo

Re: 神様の迫害なら

コメント、ありがとうございます。
統一教会には、正さなければならない、さまざまな問題があるのは確かだろうと思います。ただ私は、問題をいつも自分の中から見始めるようにしているので、「正さなければならない自分の問題は何だろうか」と自問します。
その自問を、折にふれ、日々繰り返しています。その都度、何らかの閃きがあれば、どう改善すればいゝかと考え、改善の努力をする。そういう繰り返しの過程におります。
この自問は、教会員それぞれが自分の内面で行うのがよいと思います。最初から「教会の問題は?」と考えると、つい、自分を教会の外において、他人ごとのように考えてしまいがちですから。
教会の問題については、いづれ書くときがくるかもしれません。

2023年10月18日 (Wed) 19:41
いちご

No title

ご回答ありがとうございます。
教会の問題はいづれということですね。kitasendoさんのような道徳感をお持ちの方が、いろんな葛藤の中でそれでも信仰を続ける理由も知りたいと思っています。

2023年10月19日 (Thu) 17:26
kitasendo
kitasendo

Re: No title

今の私には、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」というような信仰はあまりありません。むしろ、信仰とは「今、こゝにある事柄の中に最高の悦びを見出す」ようなことではないかと考えています。いづれそんなことも、書いてみたいと思います。

2023年10月19日 (Thu) 23:23
はちみつ

食口は無理しすぎたのでは?

高額献金被害が取り上げていますが、献金自体は違法だと思いません。
賛同出来るものに寄付することは、問題ないはずです。

ただし献金を募ったならば、その集まった範囲内で身の丈にあった教団活動をするということが大事だと思うんです。
これができないがために、信者に過度な献金、一般の方から霊感商法というような形で資金調達をするという無理が下ったわけです。
高額献金ゆえに自己破産した人、信仰一世である親と縁を切った二世達。
このように、家庭が崩壊した人を結果として生み出してしまった。
これに対する行政処分が下されたということは、しっかり反省してもらわなければいけないと思っております。

2023年10月21日 (Sat) 12:02
kitasendo
kitasendo

Re: 食口は無理しすぎたのでは?

「無理をしない信仰なんてあるのか」という思いは、私の中にもありましたね。「自分の限界を越えたところから、神が働く」というようなみ言葉もありますし。神が働いたのなら、神は我々の味方であり、我々に反対する者は神への敵対者ということになります。こゝは認識の分かれるところでしょう。中庸をとれば、志は間違っていなかったが、やり方に過ぎるところがあったのか。
いづれにせよ、組織のやり方や外部の思惑を考える前に、自分の心はどうなのか。それを私の良心はどう言ってくるか。できるだけ思考をとめて、良心の声を聴くことが必要と思います。

2023年10月21日 (Sat) 20:39
kitasendo
Admin:kitasendo