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「感情」とは何か

kitasendo
2023-09-30

日々の生活の中で、誰にでも「感情」が起こる。腹が立つたり、不安になつたり、怖れが起こつたり、嬉しさがこみ上げてきたり。物事にふれるたびに、何らかの感情が沸き起こつてくるから、我々は自分の感情を取り立てて分析したりはしないのがふつうでせう。

そこで、改めて、取り立ててみる。

「感情とは一体何だらう? どうして、ものごとに触れて、いろいろな感情が湧き上がつてくるのだらう?」

この疑問に対して、エイブラハムは、
「『内なる私』と『外なる私』がどれほどズレてゐるか、その一致度を教へてくれる指標が感情である」
と答へる。

この答へを、私は『実践、引き寄せの法則』といふ本で知り、「なるほど」と思つた。一見すると思ひがけないが、賢者の知恵だなと感じたのです。


エイブラハムとは、個人の名前ではない。

本書によれば、
「言葉では説明しつくせない非物質的(霊的)な現象」
と言ひ、また
「自然な宇宙の法則を教へてくれる、素晴らしく賢明な教師たちの『グループ』」
だとも言ひます。

その「教師グループ」から、一人の女性が、所謂チャネリングのやうな形で、質問に対する答へを受け取る。それによつて書かれた本は、本書だけではない。

事の起こりは、1985年。交渉が始まつたとき、最初に教へてくれた宇宙の法則が「引き寄せの法則」だつたと言ふ。今でこそ、この法則は世界中で知らない人がゐないほど知れ渡つてゐますが、そのときは初耳で、非常に衝撃的だつたらしい。以来、エイブラハムの答へを書きとめた本を何冊も出版してきたのです。

さて、いきさつはこれくらゐにして、「感情」の話に戻ります。

最初に、「内なる私」と「外なる私」について説明する必要があります。(本書では、厳密にはこの表現が出て来ませんが、私なりに読み取り、私が理解しやすいので、この表現を使ひます)

「私」といふ自意識は、ふつう、物質的な体の感覚を抜きに自覚することは難しいでせう。脳で考へ、その命令で四肢五体が動く。それが「私」だと思つてゐます。しかしそれは「外なる私」です。

実際にはもう一人の「私」がゐて、それを「内なる私」と呼びます。この「私」は物質的な体を持たない。「外なる私」を器として使ふ、本当の「私」と言つていゝ存在です。

宗教や哲学によつて、いろいろな呼び名が使はれます。「外なる私」を「肉体」、「内なる私」を「魂」あるいは「霊」と呼んでも、さほど大きな誤差はないでせう。

最初に「源(ソース)」が存在します。エイブラハムは「神」といふ言葉を敢へて避け、「ソース」と表現する。「神」といふ言葉には、歴史的、宗教的に、さまざまなイメージが纏はりついてゐるからです。

「ソース」の分霊のやうにして「内なる私」が生まれる。その「私」がさらに物質から成る「外なる私」に入り込む。そしてその肉体感覚を通して、さまざまな体験をするのです。さういふ「外なる私」を、エイブラハムは「ソースの最先端」と呼びます。

例へてみれば、「ソースの触手」と言つてもいゝでせう。ソースはその触手を可能な限り長く伸ばし、そこで感じる感覚を通して、自分だけではできなかつた「体験」をしようとするのです。

こゝでエイブラハムは、「川に浮かぶカヌー」の例を使ひます。

「カヌー」は「外なる私」。そして、「川の流れ」はこの世の人生です。

これまで我々は、オールを漕いで流れに逆らひ、上流にのぼつていくのが人生だと考へてきた嫌ひがあります。流れに任せて流れ下つていくなんて、怠惰な人生だ。問題にぶつかれば、それを克服し、向上(流れを遡る)していくことこそ、あるべき、成功の人生だ。さう考へてきたと思ひます。

ところがエイブラハムは、
「断言する。上流には、あなたの望む理想はない。理想は下流にこそあるのだ」
と、きつぱり言ひ切るのです。

こゝで「感情」の問題が出て来ます。

例へば、具合が悪くて病院に行つたところ、医者から重い病気の診断が出されたとします。深刻な問題ですね。このとき、カヌーの舳先を上流に向けるか、それとも下流に向けるか。どちらに舳先が向いてゐるかを、自分の感情で知ることができるといふのです。

「どうして、こんな病気になつたんだらう」
「こんな病気に負けるものか」

これらはいづれも、流れに逆らつて(上流にのぼらうとして)ゐます。

「診断を受けたお蔭で、自分の健康のことを考へ、それを望むやうになつたな」
「こゝで慌てて、ジタバタしなければならない理由はないだらう」

これらは、流れに乗つて(下流に自然にくだつて)ゐる考へからです。

方向が真逆な、この二つの考へ方が生み出す「感情」の違ひが感じられるでせうか。

前者の場合、抵抗感が強まり、緊張感が増します。望まないこと(病気が悪化すること)を見つめてゐるからです。

それに対して後者の場合はどうでせう。望むこと(病気が治ること)を見つめることによつて、心に若干の安堵感が生まれてゐます。

どうして、かういふ感情の違ひが生まれるのでせうか。

エイブラハムは、流れに逆らふと否定的で不愉快な感情が生まれ、流れに乗ると肯定的で愉快な感情が生まれると言ひます。だから、その感情を見ることで、自分が今、流れに逆らつてゐるか、乗つてゐるかを判断できる。感情はそれを教へるために、分かりやすい「指標」として生まれるといふわけです。

違ふ感情が生まれる仕組みを、もう少し詳細に見てみませう。

病気だと分かつたとき、私の中には、
「良くなりたい(治りたい)」
といふ願望が生まれてゐます。

そして、その願望が生まれるや否や、「内なる私」はその願望を逸早く実現し、病気から快復した地点に立ち、「こちらへおいで」と「外なる私」に呼びかける。その呼びかけに応じることが「下流へくだる」といふことです。そしてそのとき、「外なる私」には肯定的な感情が生まれる。

ところが、何とかして病気に対抗しようとすると、それは「内なる私」の呼びかけに耳を貸さないといふことだから、
「あなたは今、『内なる私』と『外なる私』が大きくズレてゐますよ」
といふことを、ソースが教へてくれる。それが、否定的な感情となつて現れるのです。

何の治療もしなくていゝといふわけではない。エイブラハムは、行動を決して否定しません。しかし、行動よりも(あるいは行動の前に)「思考の調整」がもつと重要だといふのです。なぜなら、すべての現象はまづ「思考」から始まると考へるからです。

まづ「思考を整へる」ことを考へる。思考が整ふと、それに見合つた行動のアイデアが湧いてくるので、それに従ふ。そして、その結果、またどんな感情が生まれるかを、よく観察する。そんなふうに、感情を指標として流れに乗るのが賢明だといふのです。

我々はこれまで長い間、
「事態を変へるには、行動が必要だ。行動が最強だ。考へるだけで行動しない人は、決して成功しない」
と考へてきたのではないでせうか。

しかし、エイブラハムは「内なる私」の呼びかけに耳を傾け、思考を調整した上で、それに応じた行動をせよといふのです。

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