私は観察者である
「私は欲望ではない」
もう少し正確に言ふなら、
「私の本質は欲望ではない」
しかし我々の多くは、自分は欲望だと思つてゐるのではないだらうか。自分とは欲望であり、自分を欲望とほとんど同一化してゐるやうにさへ思へる。
どういふことか。
欲望なしに、我々は生きていけない。食べることも、勉強をすることも、仕事をすることも、誰かを好きになることも、すべては欲望によつてなせる。欲望の強い人がより成功し、より出世する。科学が発達し、コンピュータが生まれ、それがスマホとなつて掌に乗るやうになり、AIが人間知的作業をかなり代替できるやうになつたのも、すべて欲望のお蔭でせう。
そのやうに考へると、私は欲望であると言つてもおかしくないやうに思へます。
しかし、欲望とは何かを欲することなのですが、それは今自分はその何かを持つてゐないといふところから出発するのです。自分には何かが足りない。その足りないところを埋めることができれば、自分はもつと豊かで完璧になれるに違ひない。さういふ自己認識があるでせう。
それで私は、私の本質は欲望ではない、と思ふのです。それでは、私は何と言つたらいゝのでせうか。
「私は観察者である」
さう言つてみたいと思ひます。
必要なものはすべて私の中に、すでにある。問題は、それに気づくかどうかです。気づくためには、よく観察しなければなりません。
「すでにある」
とは、どういふことでせうか。
例へば、私が幸福になりたいと欲するとします。欲望主義者なら、そのための条件を満たさうと努力を始めるでせう。ある人は、お金儲けに専心し、儲けたお金で高級車を買ひ、大きな家を建てる。別の人は、本心の欲望を追求して、善(と思へること)を行ふことによつて幸福を感じようとする。
いづれにしても、今幸福ではないので、何らかの行為を通して幸福に行き着かうとします。
しかし、「すでにある」と気づいた人は、
「私はすでに幸福だ」
と思ふのです。
欲望主義者は、「不幸な今」から「幸福などこか」へ移動し、到達することで幸福にならうとする。そこに到達するまでは幸福になれないと思つてゐる。それに対して観察者は、どこにも移動せず、今こゝにゐるまゝで幸福であり得ると知つてゐるのです。
だから、観察者は欲望を満たすために努力するのではない。すでに満たされた人として考へ、行動する人です。
それで『神との対話』の中で、神は対話者にかう勧めてゐます。
「そこに行き着く」道は「そこにいる」ことだ。行きたい場所にいなさい。幸福になりたいか? では、幸福でいなさい。愛がほしいか? では愛になりなさい。 |
聖書を見ても、神は人間の始祖アダムとエバに3つの祝福を与へてゐます。神に似た立派な個性完成者になれ。子孫をたくさん産み増やせ。この世界をよく愛して主管せよ。
これらは祝福と呼ばれるのですが、決して人間の欲望を刺激するものではない。それはむしろ「約束」であつて、すでにあなたの中にあると保証してゐるのです。それに気づきなさいといふ勧告でもあります。
「立派な人間になりたいか。では、立派な人間でありなさい」
と激励してゐるのです。

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