アポトーシスを通して生まれ変はる
DISTANCE.mediaといふところが
「Rapoptosis」
といふ独自の概念を提唱して、「人」と「もの」と「テクノロジー」の関係を見直してみようといふ試みをしてゐます。
DISTANCEといふ名前のとおり、「人」をふくめたさまざまなものとの「距離感」に注目してゐるやうです。
「Rapoptosis」といふのは「apoptosis」を基にした造語です。
多細胞生物には、個体全体の健康を維持するため積極的に細胞が自死する、アポトーシス(apoptosis)といふ仕組みが備はつてゐます。「Rapoptosis」とは「renatus via apoptosis(アポトーシスを通して生まれ変はる)」といふ意味です。
具体的に考案したコンセプトは、次のやうなものです。
買つてはみたものゝ、ほとんど着ないで、クローゼットのハンガーに掛かつたまゝになつてゐる服があるとします。その服がある一定期間着られないと、まるで自死を図るやうに勝手にハンガーから落ちる。
そして、
「今までありがたう」「私との思ひ出を忘れてない?」
といふやうなメッセージをSNSで所有者に送る。
それを見て所有者がその服の価値について考へ、手放すことに同意すれば、服がみずからをオンラインで中古販売する。そして、次の所有者が決まつたら自走する段ボールで回収され、「さやうなら」と言つて去つていく。さういふシステムです。
ワークショップでこれを実験すると、参加者はかなりショックを受けるさうです。分かる気がしますね。服が勝手にハンガーから落ちるのを目撃してもショックでせうし、服から「さやうなら」といふメールが届くのもショックに違ひない。
皆さんは、どう思はれるでせうか。私がこの風変はりなコンセプトに惹かれるのは、かういふ理由です。
断捨離といふ片付け手法があります。あるいは、「ときめきを感じなければ手放さう」といふこんまり・メソッドといふものもあります。これらはいづれも、所有者側の意向が主体です。
ところが、「Rapoptosis」は、もののほうが主導権をとるのです。ある一定期間着用されなければ、「私はもう今の所有者とは縁を切つて、新しい所有者を探したほうがいゝのかな」と考へ、今の所有者にその意向を伝へる。
所有者はその服の気持ちを聞いて初めて、
「服はそんなことを考へてゐたのか。私にはこの服を持ち続ける理由があるだらうか」
と思案するのです。
つまり、これまでの我々はつねに、自分(人間)を中心にしてものの価値を考へてきた。自分に必要なら持つし、不要になれば手放す。テクノロジーでも、人間にとつて利便性があるかどうかが発想の基本となつてきた。
それに対して、「Rapoptosis」は「もの」の視点を取り入れようとしたのです。人間に主軸を置いた「人とものとの関係」が主流だつたのに、ものに主軸を置いたらどうなるかと考へた。こゝに面白みを感じるのです。
一旦この視点に気づいてみると、ものの見方が違つてきますね。
我々はさまざまなものに囲まれて生活してゐます。例へば、台所にはテーブルがあり、椅子があり、食器がある。ふだんは「この椅子は座り心地がいゝ」とか「この食器は色合ひが気に入つてゐる」などといふ自分中心の視点で使つてゐるでせう。
しかし、ものの視点に立つてみれば、
「この椅子は私のことが好きかな? 私に座つてもらつて嬉しいのかな?」
といふことが気にかゝり始める。
一人暮らしになつた今では、座る椅子はいつも決まつてゐて、他の椅子にはほとんど座ることがない。皿だつて、お気に入り以外は食器棚の奥に詰め込んでゐたりする。そんな彼らも、もしかしたらRapoptosisを密かに考えてゐるかもしれない。
ふつうには彼らの声を聴くことはできないが、あるとき彼らから「さやうなら」といふLINEが届いたら、どうだらう。そのときはやはり、ちよつと真剣に考へざるを得ないでせうね。
しかし、さういふテクノロジーの助けなんてなくても、彼らの声を聴き取ることのできる感性は、我々に本来備はつてゐるのではないか。それが本当の「万物主管」ではなからうかといふ気がする。

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