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死ぬときぐらゐ迷惑をかけよう

kitasendo
2023-09-13

先月の22日に母を看取つてから3週間。体調が崩れたまゝ、いまだ旧に復さず、気も抜けたまゝで、ぼんやりとした日を送つてゐます。

私は今生で二人の女性を自宅で看取つた。22年前に妻を、そしてこの度は母を。これが私の今生での務めなのかなとも思つたりします。

そんなときに、ネットでたまたま
どうせ死ぬんだから
といふタイトルの本が目についた。

そして本の帯には、「後悔せずに逝くための5つの新提言」とあつて、その5つともが私の腑に落ちる。本当にさうだなと思つて、早速買つて読んでみました。

著者は今人気の和田秀樹さん。30年あまり、高齢者専門の精神科医を務めてきた人です。『80歳の壁』などベストセラーがいくつもあります。


「どうせ死ぬ」といふのは、捨て鉢に生きよの謂(いひ)ではない。「どうせ誰でも確実に死ぬ運命なのだから、好きなことをやつて寿命を使い切らう」といふのです。

そこで、5つの新提言とは、以下の5つです。

① 体にいゝものよりラーメン週5。
② 金持ちより思ひ出持ち。
③ 医者の言葉より自分の体の声を聴かう。
④ 終活なんかいらない。
⑤ 死ぬときぐらゐ迷惑かけよう。

どうですか。どれも、我々が漠然と思つてゐることの反対、何だかわざと天邪鬼を言つてゐるやうにも思へますね。しかし私にはこちらのほうが納得感があります。

こゝで和田さんが念頭においてゐるのは、少なくとも70代以降の人です。曲がりなりにもそこまで生き延びてきた人は、それなりに頑張つたと言つていゝ。辛いことも耐へ、やりたいことも我慢し、息苦しいルールにも従つてきた。それなら、せめて老後くらゐ、もつと自分の気持ちに正直に従つたらいゝぢやないか。さういふ趣旨です。

和田さんは高齢者専門で6000人以上の患者さんを診てきた。その上で、ざつくり分ければ、70代は「老いと闘ふ時期」80代は「老いを受け入れる時期」と言ひます。

歳をとるにつれて、体力は落ちる。今までできていたことが難しくなる。そんなのは嫌だ、何とか若さを維持したいと闘ふのが70代。

しかし、いくら闘つても老いるものは老いる。その事実は受け入れるしかないといふ境地に入るのが80代。

闘ふのが悪いことではない。80以上長生きしたいのであれば、70代はその基礎力をつける努力をする。和田さんによれば、特に男性にとつては男性ホルモンが重要だとのことです。

これが減ると、意欲が減退し、記憶力、判断力、筋力が落ちる。これを防ぐには男性ホルモンの原料になるコレステロールを多く含む肉を多めに摂る。そして適度な運動をし異性の気に触れるやうにする。

しかしそれでも衰えをとめることはできない。いつかは、闘ふよりも受け入れよう。それがまあ、自然な流れでせう。

和田さん自身は、まだ60代に入つたばかりです。それでも80代の境地に逸早く到達したのは、高齢者専門の精神科医といふ仕事柄だと思ふ。

私も同じ60代で、和田さんの見解に共感するのはなぜだらう。数こそわづかだが、身近な女性を2人、この手で看取つた体験が大きいやうな気がします。

特に40代の初めで若くして逝つた妻の運命を受け入れるには、長い時間がかかつた。「どうしてこんなに若くして…」といふ思ひが、長い間振り切れなかつたのです。

しかし、さういふ一見理不尽さうに見える運命も受け入れるしかない。その体験を経てゐたので、母のときはづつと楽でした。老いていくこと、認知症が進むこと、赤ん坊に還つていくことが私の闘ひにならなかつた。可哀さうでもなかつたのです。

人間はそのやうに次第に老いていくのが自然なことでせう。それまでできてゐたことが一つづづできなくなるのは、本人にとつてもつらかつたとは思ふ。しかしそれも、認知症の進行によつて、かなり緩和されたやうに見える。自然の摂理はうまくできてゐます。

若くして病気になつても、年老いて体が衰えても、人は死ぬまでの最後の一定期間、どうしても人の世話にならざるを得ない。和田さんも言ふとおり、日本人にはそれを良しとしない倫理観がありますが、和田さんは第5の提案のやうに、死ぬときぐらゐ他人に迷惑をかけようと言ふ。これにも私は共感します。

若いときにはずいぶん人の世話をしてきたのだから、歳取つたら、今度は人の世話になる。それは全然悪いことではない。

さらに言へば、実際私は母の介護をしながら、人は人生の最期に「他人の世話になる」のではないと思つた。さうではなく、本当は「他人に世話をさせてあげる」。これが真実だと思ふのです。

人は最期に、自由に動かなくなつた体を狭いベッドに横たへ、不自由な境遇に敢へて身を置くことによつて、家族に「介護の機会」を与へ、「看取りの体験」を提供する。それが人生最後の貢献です。

だから、人生の終盤は我がまゝでいゝ。和田さんのやうにラーメンが好きなら、健康なんて気にしないで、週5でラーメンを食べ尽くせばいゝ。終活なんてしてゐる時間が勿体ない。

私の母は何より甘いもの好きだつたので、介護期間はとにかく毎食何か甘いものを準備して食べさせました。目が見えなくなつてからも、甘いものが口に入ると表情がぱつと明るくなつて、「おいしいねえ」と声を出して子どものやうに喜ぶ。それが私には本当に嬉しい体験だつたのです。

最後に、在宅介護の是非についてふれておきます。

和田さんは、基本的に、在宅看取りはよいが、在宅介護はあまり勧めないといふ立場です。末期ガンなど余命がかなりはつきりしてゐる場合、自宅で家族が世話をし、看取つてあげても負担はさほど大きくない。それでゐて、本人も家族も満足感が高いでせう。

しかし介護となると、それがいつ終はるとも分からない。先の見えないトンネルです。長引けば長引くほど、介護は難渋の度を増し、介護者は疲弊する。往々にして、感情が悪化して、憎しみさへ湧く場合がある。

それくらゐなら、在宅に拘らず、どこか適当な施設を探して入所させ、ときどき面会に行つて話を聞いてあげるくらゐがいゝ。変な罪悪感などもつ必要がないと、和田さんは言ひます。それも一理あるなと思ふ。

私の場合は、幸いに、介護が3年半で終止符を打ちました。在宅は確かに大変なときもありましたが、デイサービス、ホームヘルパー、ショートステイの3つのサービスが大きな助けでした。ショートステイには初め私は懐疑的でしたが、実際1週間入所して帰つてくると、行く前より元気になつてゐる。ケアマネさんが選んで勧めてくれた施設でしたが、本当に恵まれたと思ひます。

もう一つ、延命治療について。

和田さんは、これについて否定的です。人間にとつて自然な死は、枯れ木が倒れて朽ちるやうな死に方だといふ。これが本人にとつても一番楽な死に方です。

私もこの考へに賛成です。かかりつけ医からは何度も「いざとなれば延命措置はどうしますか?」と訊かれ、その度に「しません」と答へてきました。そして実際、その通りになつたのです。

スウェーデンなどでは、食べ物が自力で喉を通らなくなつたら「神の思し召し」と考へ、点滴も延命治療もしない。だから「寝たきり」がゐないといふのです。日本人はどうも、死を極度に恐れすぎるところがあるやうな気がします。

「死」といふものを基準点にして、今をどう生きるか、特に70代以降の高齢期をいかに生きるか。これは本当に、よくよく考へるべき人生の課題だと思ふ。

「好きなことだけやつて寿命を使い切らう」
といふとき、「好きなこと」とは一体どんなことか。

それを深く考へると、人生の深みが少しづつ見えてくるやうな気がします。

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