肉身は何のために賦与されたか
我々が堕落性を脱いで創造本性で生きるには、肉心主導から生心主導に生き方を転換する必要がある。しかしそれは、肉心を押さへつけたり軽視すべきだといふことではない。むしろ、生心の管理下において、肉心の機能をフル稼働させるのがよい。
さういふ趣旨で考へてみます。
我々には、肉身と霊人体の2つの体があつて、それぞれを管理する心(肉心と生心)がある。しかし人によつては、肉身の生活は不便で鬱陶しいと考へる場合もあるでせう。
確かに、肉身は時空間に制約される。いくら願つても、それを実現するには必ず手間も時間もかかる。どこかに行きたいと思つても、移動するにはさまざまな移動手段が必要です。
神(創造主)を信じたとしても、
「どうしてこんな不便なものをわざわざ創り、煩わしい時間を過ごすやうにしたのか」
と不平を鳴らしたくなつても不思議ではない。
ところが原理によると、肉身なしには霊人体が成長しないといふ。霊人体が完成するには肉身が必須アイテムだといふのです。一体、肉身がどのやうに貢献するのでせうか。肉身の特性について考へてみませう。
人間以外の万物には、神を直接感知する感性がないといふ。万物は物質的な被造物ですからね。それなら、肉身も同様で、それ自体にも神への感性はないと思はれます。
神への感性のない肉身が、一体どのやうにして、霊人体の成長に寄与するのでせうか。こゝが考へどころです。
肉心は肉身を保護育成することに機能特化した心です。自分の利益を最大限にする道、自分が他人から不利益を被らない道をつねに模索して提案する。それゆゑ、肉心は基本的に自己優先、自己本位になります。
この性質は、何も堕落したあとの歪んだ性質ではない。神から与へられた本来の性質と言つていゝでせう。
神はこのやうな自己本位な肉心とそれによつて動く肉身を創り、それをもつて70~100年ほど生きるやうに設計した。これはなぜかといふことです。
我々は限られた期間に、この神を知らない、自己本位な肉心をフル稼働させる必要があるのではないか。さうしてこそ、我々は肉身生活を意義あらしめ、霊人体を健やかに成長させることができる。
これは、言ひ方を換へれば、肉身の欲望は否定すべきではない。禁欲といふのは邪道で、与へられた欲望はフルに満たして生きるのが肉身生活だといふことです。
さうすると、肉身生活では専ら万物に目を向けるべきです。美しいものを見、美味しいものを食べ、行きたいところに行き、体験したいことを体験する。そのためにこそ神はこの万物世界を創り、人間の肉身を創つたわけでせう。
せつかく多種多様な世界を創つておきながら、
「この世界を味はひ尽くしてはいけない」
と神が人間の行動を制限するとは、とても思へません。
この期間には、神とか神の愛など、そんなに考へなくてもいゝ。霊界に通じて霊の声を聞く必要もない。
神の愛などといふ概念的なものではなく、親の愛を感じ、兄弟同士で愛し合ひ、子どもを慈しむ。人でも万物でも、肉身が直に感じられるものをより重視すべきだと思ふ。
ところが面白いことに、そのやうに肉身の感覚を通して入つてくる刺激を本当に感じてゐるのは肉心ではなく、実は霊人体であり生心なのです。「幸せだなあ」「美味しいなあ」「嬉しいなあ」と感じてゐるのは、すべて生心です。
これが、肉身生活を通して霊人体が成長するといふことではないせうか。これが、肉身生活をスピリチュアルに生きるといふことだと思ふ。大半の我々にとつて、無闇と霊界に通じるやうなスピリチュアルは必要ないのです。
肉身の欲望を制限すべきではないと言ふと、フリーセックス、放縦になりはしないかといふ懸念が生じるでせう。それも尤もです。しかし我々の本質はスピリットです。基本的には、生心が肉心を管理する方向に行かねばなりません。
生心には時空がないので、自分の人生を「永遠」の基準で考へます。自分だけでなく、俯瞰して全体を眺めます。
だから、
「自分は何のために生まれてきたのか。永遠の利益は何か」
を私に示唆してくれます。
結論はかういふことです。
「人生を肉心主導から生心主導に」といふのは、肉心の欲望を否定せよといふことではなく、むしろ肉心を全開にし、その肉心を生心で管理しようといふことです。肉心が目の前のものに全開になると、肉心が作つてきた厄介なさまざまな概念が力を失ひ、肉身の感覚器官から入つてくる情報が最大限、霊人体の感覚を刺激し、霊人体が成長するやうになる。これが、堕落性を脱ぐ一つの道ではないかと思ふのです。

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