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脱マインドコントロールのために思考停止しよう

kitasendo
2023-08-06

「マインドコントロール」といふ言葉は、今の日本では甚だイメージが悪い。この場合は、「マインド『を』(他者に)コントロールされてゐる」といふ理解でせう。さう考へれば、確かにほめられたことではない。

しかし私はこゝで、この言葉を通常とは違ふ角度で考へてみます。つまり、「マインド『に』コントロールされてゐる」といふ理解で話を続けます。

「マインド」とは「思考」のことです。それゆゑ、タイトルの意味は、「思考にコントロールされるのをやめるために、思考を停止しよう」といふことです。

思考の主体は誰か。ふつうには、それはもちろん「自分」だと言ひたいところです。ところが、自分であるべき主体性を他の誰かに乗つ取られてゐる場合がある。「マインドコントロール」といふ言葉で恐怖を煽らうとする人たちは、これが由々しき事態であると言ふのです。

本当に乗つ取られるなら、看過できない問題でせう。しかし、自分の思考「を」他の誰かにコントロールされてゐるといふ前に、そもそも自分が思考「に」コントロールされてゐる恐れはないのか。そこに私の危惧があります。

私の見るところ、99%の人は思考「に」多かれ少なかれコントロールされてゐる。このことに気づき、これをまづ何とかする必要があると思ふのです。

思考にコントロールされるとは、どういふことでせうか。

思考の土台は「記憶」です。「記憶」とは過去のデータですが、そのデータにはそれを保存したときの感情が付随してゐます。

データの保存場所は無意識です。ふだんはそこに眠つてゐます。そして私がある事態に遭遇すると、それに関連するデータが無意識から立ち上がつてきます。

そこで、
「あのときもあゝだつたから、今度もさうしよう」
「あのときも同じやうに言はれたけど、嫌だつたなあ」
などといふ思考が生まれる。

しかもその思考は、私が意識的にコントロールすることが難しい。むしろ、その思考に私がコントロールされてしまふ。そのやうに考へようとしたわけではないのに、我知らず、そう考へてしまふのです。

このやうな思考は、一日平均4万から6万にものぼるとも言はれます。それだけの数の思考が、目の覚めてゐる間中、休みなく湧いてくる。とても意識的にコントロールできるやうなものではないのです。だから、たいていの我々は、思考「に」コントロールされてゐる。

この状態は嫌だ。「私」と「思考」の主従関係を逆転し、「私」の主体性を取り戻したい。さう思つたら、どうしたらいゝでせうか。

思考を停止したらいゝと思ふ。

「マインドコントロールされると、思考停止人間になる」
などと揶揄されることもあるのですが、マインド「に」コントロールされないためには、自ら意識的にマインド(思考)を停止するのが賢明な策ではないかと思ふのです。

とは言へ、思考停止は至難の業です。

特に私のやうな思考偏重人間では、いろいろ工夫して思考停止を試みると、
「思考をやめるなんて危険だし、できつこない」
といふ思考が即座に警告してきます。

しかし、
「仮令数秒でもいゝ。まづは瞬間でもいゝから、思考停止してみよう」
といふ気持ちを捨てることはできません。

昔聞いた話で、正確な言ひ回しは思ひ出せないのですが、文鮮明先生がこんなことを言はれたことがある。

どんな場合でも、その気になれば、私は瞬時に瞑想状態に入ることができる。

これは、「思考停止状態にはいれる」といふことではないかと、今頃になつて思ふのです。思考を停止すると、その瞬間、神に通じる。過去のデータを遮断することで、神からの直接のインスピレーションを得るラインが開ける。

しかしさういふ境地に至るために、文先生は若い頃、毎日10時間以上の祈祷を続けたといふ。やはり並大抵のことで思考を停止することはできないやうです。

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Admin:kitasendo