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「待つ人」でいゝのか

kitasendo
2023-08-04

聖書のマタイ福音書25章に「十人のおとめ」の喩へ話があります。

彼女たちは灯火を手に、花婿の到着を待つてゐた。ところが、その内の思慮深い五人は油を準備し、残りの思慮の浅い五人は油を準備してゐなかつた。花婿の到着が遅れたために、十人はみな居眠りをした。

夜が更けて急に「さあ、花婿だ。迎へに出なさい」といふ声が聞こえたが、気がつくと、そのときすでに灯火の油は残り少なくなつてゐた。そこで思慮の浅い乙女たちは他の五人に油を分けてほしいと頼んだところ、「分けてあげるに十分な油はない。店に行つて買つておいでなさい」と断られた。

彼女らが買ひに行つてゐる間に新郎が到着し、思慮深い乙女五人は新郎とともに婚宴の部屋に入り、その門が閉ざされた。店から帰つてきた五人は戸を叩いて「開けて、私たちも入れてください」と懇願したが、「お前たちを知らない」と言はれ、入れてもらへなかつた。

この喩へをどう解釈したらいゝのでせうか。

「花婿」がイエスの再臨、「おとめたち」は信仰者、「灯火」は信仰、「油」は愛と善行、「居眠り」はイエス再臨までの期間、「婚宴」は天国を、それぞれ表してゐる。それが最もオーソドックスな解釈でせう。

しかしこゝでは、さういふ神の特別な摂理の時の問題に限定せず、もう少し広く、我々の精神のありやうの問題として考へてみます。

喩への「おとめたち」は花婿の到着を「待つて」ゐたのですが、「待つ心」はどこに焦点を当ててゐたのでせうか。言ふまでもなく「花婿が到着する」未来における「そのとき」です。そんなことは、あまりにも当たり前のことにやうに思はれます。しかしこゝが、注意深く考へるべき重要な点です。

我々すべてが、誰でも「おとめ」です。そして我々も、往々にして「待つ人」なのです。何を待つてゐるのでせうか。

嫌な仕事をしながら、次の休暇を「待つ」。
いろいろな努力をしながら、それが成功するのを「待つ」。
節約をしながら、貯金が目標に達するのを「待つ」。
子どもの世話をしながら、彼らが一人前になる日を「待つ」。


今はまだあれこれ足りないことが「不満」だけど、いつか目標が達成されたら「満足」の未来が手に入る。私の心のベクトルがいつも「ベターな未来」に向かつてゐます。

「待つ」といふ心理状態の根底には、「今は嫌なので、未来を求めてゐる」といふ潜在意識がある。自分が今持つてゐるものは「要らない」と感じ、自分が持つてゐないものを「欲しがつて」ゐます。

ゐたくない「今」と、ゐたい「イメージの中のベターな未来」。この二つの間のギャップが、心に葛藤を作り出してゐます。

「今」にゐたくない私が、いつか訪れると期待する「ベターな未来」に満足するでせうか。それは「ベターであるはずだつた今」に変はり、そこでまた新たな「ベターな未来」を希求するやうになるでせう。これが「思慮の浅いおとめたち」の姿です。

一方、「思慮深いおとめたち」は、「ベターな未来」に希望をおかない。予備の油を準備してゐたのは、「今」に豊かさを見出し、満足を感じようとしたといふ意味です。自分が今持つてゐるものの価値に感謝しようとしたのです。

「思慮が浅い」といふのは、一見すると、未来に対する配慮が足りないといふふうに思へますが、実は、むしろその反対です。未来ばかりを空想するために、「今」を見失ふ。それが「思慮が浅い」といふのです。

未来と過去は、無意識の中にあります。そこに意識はない。意識が出現するのは「今」においてだけです。

過去を思ひ煩ひ、未来を空想するのは、無意識の思考です。つまり、「我知らず」それをしてゐる。

ところがさういふときに、「私は今、何を考へてゐるのだらう」「今、何をしてゐるのだらう」と思つた瞬間、意識が戻つてくる。無意識から目覚め、思考がとまるのです。

十人のおとめたちはみな無意識の中で「居眠り」をしてゐたのですが、思慮深い五人は、ハッと「今」に戻つて意識を取り戻したのです。すると、「私の人生は今、こんなにも満たされてゐるのか」といふことに気がついた。

このやうに考へてみると、十人のおとめの喩へは、ただ単に再臨のときだけに言及して終はる箴言ではない。永遠に有効な奥深い智慧に思はれてきます。

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Admin:kitasendo