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スピリチュアルな人

kitasendo
2023-07-31 

「スピリチュアルな人」
と言へば、あまり良いイメージはないかもしれない。

  • 目に見えないものばかり追ひかけて、現実に疎い人。
  • 水晶やら何やらを勧めて金儲けをする界隈の人。
  • 悪いことがあるとすぐ、霊の働きや先祖の因縁に結びつける人。

どことなく怪しげで、いかゞわしい。あるいは、悪人とは言へないまでも、敬して遠ざけたい。そんな感じがあります。

しかし考へてみると、人間が肉身と霊人体の二重体であるなら、あらゆる人は「スピリチュアルな人」と言つてもおかしくないでせう。むしろ、スピリチュアルでないとおかしい。

それなのに、現実には「スピリチュアルな人」を敬遠する「スピリチャルでない人」のほうが圧倒的に多いやうな気もする。これは一体、どういふことでせうか。

「スピリチュアルな人」を次のやうに定義してみます。

どんな事態でも、自分の内面でしつかりと対話する人。

このやうに定義してみると、「スピリチュアルでない人」とは、
  • 自分の内面を見つめない人
  • 事態の原因や理由を自分の外に求める人
といふことになります。

我々は誰しも、往々にしてかういふ人になりがちです。信仰者、宗教人と自負する人でも、うつかりするとかういふ人になつてしまふ可能性があります。

以前の記事「
悶々とする『善悪知る木』」で、
「善い者になる可能性と悪なる者になる可能性との間で揺れ動く、甚だ不安定な存在」
と書いたことがあります。

こゝで別の言ひ方をすれば、「善悪知る木」とは「スピリチュアルでない人」です。一方、それに対する「生命の木」が「スピリチュアルな人」と言つていゝでせう。

「生命の木」は自分の内面でしつかりと対話する人。すべての人が目指すべきなのは、この「生命の木」です。

それなら、「自分の内面で対話する」とは、どういふことでせうか。

対話は二人の人がゐて初めて成り立つものです。自分の中に人が二人ゐるのか。ゐます。

実際、自分を振り返つてみれば、たいていの人は日常的にこの対話をしてゐることに気づくでせう。

「あんなことをしたけど、あれで良かつたのかなあ?」
「最善とは言へなくても、仕方なかつたと思ふよ」

そんな内面のやり取りは結構あるものです。

これは、誰と誰が対話してゐるのか。肉心と生心と言つてもいゝ。ホ・オポノポノでは、ウハネ(表面意識・母)とウニヒピリ(潜在意識・子)といふふうに捉へてゐます。

対話者の特定にはバリエーションがあるとしても、基本的には、外的対話の前に内的対話が行はれる。ところが、我々の多くは、この先行する内的対話にあまり自覚的でないか、大きな価値を置かないことが多いのです。

その結果、我々の目は勢ひ、内ではなく外を向いてしまふ。特に、困つた事態に遭遇すると、その原因を自分の外に求めてしまふのです。

一方、仮に、内的対話に自覚的である場合でも、あまり深い対話に入れないことが多いと思ふ。本音の対話はなかなかできないのです。

本音の対話とは、どういふものでせうか。

「この事態の本当の原因は、あなたの中の何だと思ふ?」
と単刀直入に尋ねてみるところから、その対話は始まります。

その質問を発すると、それに対する答へを探さねばならない。すると必然的に、自分の目が否応なく内面のより深いところに向かふやうになるのです。

深いところに降りれば降りるほど、自分でも触れたくなかつた自分の本音に触れざるを得なくなります。水底に沈んでひつそりとしてゐたものを攪拌して表面に浮かび上がらせるやうに、自分の中の嫌な部分、汚い部分が見えてきます。見たくないのですが、それこそが本当の原因だと認めるしかない状況になります。

この一連のプロセスこそが、『原理講論』の言ふ「甘受」ではないでせうか。「甘受」をしてこそ、我々は「スピリチュアルな人」になつていく。逆に言へば、「甘受」をしない限り、「スピリチュアルでない人」に留まり、「善悪知る木」のまゝで、いつまでも「生命の木」になれないのです。

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Admin:kitasendo