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今にしか天国はない

kitasendo
2023-07-14

だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
(マタイ福音書6:34)

この一節は有名な「山上の垂訓」の一部です。文脈としては、信仰の薄い者たちを、イエス様が諫め、諭しておられます。

本当に神を信じるなら、何を食べるか何を飲むかと、どうして明日のことを思ひ煩ふのか。もつと神を信じなさい。さう励ましておられるやうに見えます。

しかし、この垂訓はただ単に神をどれくらゐ信じるかといふやうな「信仰の話」ではなく、生活の心配をし過ぎるなといふ処世訓でもない。もう少し奥に潜んだ意図があるやうな気がします。

例へば、イスラム教神秘主義スーフィズムの指導者ルーミーに、こんな言葉があります。

過去と未来は、神をおおいかくして、わたしたちの目をくらます。過去と未来は炎で燃やし尽くそう。

我々が過去に拘り、未来への期待や不安に囚はれ過ぎると、目に覆ひがかかつて神が見えなくなる。それだつたら、昨日の記憶を引きずらず、明日のことを妄想しないでおかう。そのやうに読み取れます。

この観点から冒頭の垂訓を見直してみると、イエス様の真意は、
「時間の世界にとどまつてゐると、神が見えなくなる」
といふことではないかと思はれてくるのです。

ところが我々は、たいてい「時間の世界」で生きてゐるでせう。「天国」といふものをイメージするときもさうです。

理想的な世界としての「天国」を求めるけれども、それは過去にもなかつたし、今もまだない。ただ、いつと確実に言へない未来にのみ実現されるだらうと期待してゐます。そして、一日でも早くそれを実現しようとして、今日も努力するのです。

ところが、そのやうに努力したとしても、未来にのみ存在する天国は本物ではない。ただ私の頭の中に描く夢想に過ぎないのです。

なぜなら、今日の私には神が見えてゐない。その天国人でない私が思い描く天国が真実の姿である可能性は、極めて低いでせう。

だから、天国などは夢想しても仕方ない。といふより、むしろ夢想しないほうがいゝ。夢想の天国に神はゐない。今にしか、おられないのです。といふことは、今にしか天国もない。天国のイメージを見直す必要があります。

神の摂理を学ぶと、我々は長い過去からの神を知つたやうな気がします。そして、現在から近い未来にかけて、摂理がどのやうに完結していくかも理解したやうな気になります。しかしそのやうに思ふ「今」、私には神が見えてゐない。

摂理を学ぶのは神を知ることではない。神についての「情報」を得てゐるだけです。ところが、情報を得たことをもつて「神を知つた」と思ひ込みやすい。

神を知るには、過去を捨て、明日を思ひ煩ふことをやめ、「今(今日)」にだけとどまる必要がある。垂訓もルーミーの言葉も、その一点を教へてくれてゐるやうに、私には思はれます。

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