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「自分」であることの魅力

kitasendo
2023-06-16

茂木健一郎さんがツイッターで
「ジャニーズは学芸会、BTSは完成度の高い学芸会」
と評したことについて、Youtubeでその真意を説明してゐます。

私自身はジャニーズにもBTSにも特別な関心がないし、彼らが学芸会であらうとなからうと正直どうでもいゝが、茂木さんがこの問題を取り上げる着眼点に惹かれる。何にどう惹かれるか、私の感じるところを、少し書いてみようと思ひます。

「学芸会」の意味は、
「演者たちは熱心で真剣だが、演技そのものが未熟である」
といふことです。

ただ、茂木さんがさういふ言ひ方をするのは、彼らのパフォーマンスのレベルの未熟さを指摘するところにその本意があるのではない。むしろ、彼らの目指す「方向性」を問題にしてゐるのです。

一言で言ふなら、
「アイドルとはかくあるべきものだといふイメージに、自分たちを寄せようとする」
といふ意識(あるいは概念)の方向性です。

アイドルのイメージ。ある程度漠然とはしてゐるものゝ、確かにあるでせうね。

・熱心で、一生懸命である。(これがまさに学芸会)
・前向きで、明るい。
・親しみがある。

アイドルたらうとする人たちは、かういふイメージの枠の中に自分を入れ込まうとする。そしてその枠の中からはみ出してはいけないと考へる。

その結果、どうなるか。

「自分」といふものが隠れてしまふのです。アイドルはイメージの魅力を前面に出し、「自分」だけが本来持つてゐる魅力を背後に押し込める。

ファンであれば、イメージの魅力にも十分満足するのかもしれない。しかし茂木さんは、もう少し演者その人にしか表現できない独自の「自分」の魅力を期待するのでせう。

私も、宜(むべ)なるかなと思ふ。

「自分であることの魅力」とは何でせうか。

これは、独りアイドルやミュージシャン、芸術家に限つた話ではありません。凡人だと自認する大半の我々にとつても、考へるべき問題だと思ふ。

「自分であることの魅力」の源を、茂木さんは、
「自分に正直であること(英語で言へば、Be Yourself)」
と言ふ。

少し、具体的な解説を引用してみませう。

ビリー・アイリッシュの公演は、服装は凝つてないし、派手な踊りもない。しかしベリーはあたかもそのときに思ひついたかのやうに歌ふ。すごく生々しいといふか、命の震へのやうなものが、今の我々が生きてゐる時代の感覚をよく捉へてゐて、そこに感動する。



私はそのミュージシャンを知らないが、茂木さんの言ひたいことは推察できます。ビリーは何らかのイメージに自分を寄せようとしてゐない。聴き手として感動できるのは、演者の洗練されたパフォーマンスといふより、その演者が時代そのものを体現してゐる「自分」の魅力なのです。

まさに
「Be Herself」
の魅力と言つていゝでせう。

茂木さんの言ふ「今思ひついたかのやうに歌ふ」といふのは、もちろん、悪い意味ではない。むしろ反対に、最高のパフォーマンスといふ賛辞です。

演者本人が
「私はかういふ者」
といふイメージの枠を外さなければ、人を本当に深く感動させるパフォーマンスはできないでせう。

これを私(我々)に当てはめると、どういふことになるでせうか。

誰にでもイメージの枠があります。

 

・私は父親である。

・私は〇〇長である。

・私は物分かりの良い人間と見られてゐる。

 

さういふイメージの枠があると、どうしてもそれに寄せてしまふ。「父親らしく」「〇〇長らしく」振る舞はうとする。

 

私なら「元教育部長」といふイメージの枠がある。すると、どうしてもその枠に合はせた記事になりやすい。「アイドルのジレンマ」とでも言ふべきものが、我知らずあるのです。

 

しかし、「らしく」振る舞ふ人に、本当に人の心を動かすやうな魅力はないでせう。私がいくら「元教育部長らしく」書いたとしても、「Be Myself」のない記事には、本当に読む人の心を動かす力はないだらうと思ふ。

 

あたかも今思ひついたかのやうな記事、生々しく、命の震へのある記事を書きたいものです。



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Admin:kitasendo