甘受は、何を甘受するのか
「甘受」といふことについて考へるやうになつて、もうかれこれ8年になる。この概念は『原理講論』の「復活論」に短く、わづか1項ほどで扱われてゐるに過ぎないのですが、考へれば考へるほど、人生において重要なキーワードだと思はれてきます。
これがどういふシステムなのかについては、私の過去の記事を参考にしてください。
「許可を出したのは私である」
「なぜ『甘受』がベストなのか」
今回は
「甘受するとは、何を甘受するのか」
といふことについて考へてみます。
『原理講論』には、かうあります。
地上人がその悪霊人の与える苦痛を甘受すれば、これを蕩減条件として、彼は家庭的な恵沢圏から氏族的な恵沢圏に入ることができるのである。 |
これをそのまゝ読めば、
「甘受とは、苦痛を甘受することだらう」
と思はれます。
しかし、よくよく考へていくと、どうもさうではなささうに思はれてくるのです。
苦痛の受け止め方には、いろいろあります。
例へば、
「どうして私がこんな苦痛を受けないといけないんだ。一体誰が悪いんだ?」
といふ受け止め方。
これは、自分には苦痛の責任がない。他の誰かのせいで苦痛をうけてゐるといふ考へです。言はば「苦痛の原因他者説」とでも呼ぶべきもので、とても甘受とは言へない。
他には、
「あの人の苦痛に比べれば、私の苦痛はまだ小さい。あの人のことを思へば、私の苦痛などまだありがたい」
といふ受け止め方もある。
例へば、十字架で亡くなつたイエス様の苦痛と比較する。それに比べれば、たいていの苦痛は小さいから、受け入れようといふ気持ちになれる。
これも一種の「甘受」と言へなくはないでせう。しかし、本当の「甘受」といふには、何かが足りないやうな気がします。
さらには、かういふ受け止め方もあるかもしれない。
「この苦痛は私の責任ではないが、先祖の罪を肩代はりした苦痛として受け止めよう」
これも「甘受」と言へなくはない。しかし、やはり何かが足りない気がする。
何が足りないのか。考へていくと、いづれも「自分に責任はない」と思つてゐる。自分に責任はないのに甘受しようとしてゐる。そして、苦痛そのものに甘受の意識が焦点を合はせてゐるのです。
甘受といふのは、苦痛を甘受することではないのではないか。それなら、何を甘受するといふのでせうか。
「苦痛の原因は私自身にある」
といふ意識を甘受する。
これが本当の甘受の意味ではないかといふ気がするのです。
私たちの意識は大抵の場合、苦痛の原因を自分の外に求めようとする。
「あの人が悪い」
「政治が悪い」
「先祖が悪い」
「サタンが悪い」…
これらはすべて、「苦痛の原因は私にはない」といふ意識です。ところが、このやうな意識のまゝ苦痛を受け入れようとすると、無理矢理の甘受、形ばかりの甘受になる。その場合、私の意識は変はらないのです。
だから「苦痛の原因は私にはない」といふ意識を捨てて、「苦痛の原因は私にある」と意識を受け入れる。かうしてこそ、私は本当に変はる可能性があるでせう。
しかし、こゝで最後に本質的な疑問が残ります。
「あらゆる苦痛の原因は、本当に私にあるのか?」
これが私の思ひ込みに過ぎないのであれば、私は自分を誤魔化してゐることになります。しかし、思ひ込みではないだらうと、私は思ふ。
これを理解するには、
「私は第二の創造主である」
といふことを考へてみる必要があります。

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