自分の中の鬼を養ふ
鬼といふのは形相は怪異、人を痛めつけ、人の財産を強奪して島に溜め込む悪辣な輩。さういふイメージもあります。
しかしその一方で、「鬼神」とも言ひ、神と並び称される超自然な力の持ち主でもある。「鬼滅の刃」では、いくら切られても死なない不死身の存在です。
鬼についての、かういふ寓話を聞いたことがあります。
鬼は神から造られたが、初め、神のことが嫌ひであつた。どうしても虫が好かない。良い奴か悪い奴か分からない。そこであるとき、神を試してみようと思つた。
神のものを盗んでみた。いくら神でも怒るに違ひないと思つてゐたら、神は一向に怒らない。
「お前はそれがほしかつたんだな。あげよう」
と言つて、許してくれたといふのです。
その他にも、ありとあらゆる意地悪をしてみた。しかし、神は怒らず、すべて許してくれる。ただし、鬼が何か悪に染まりさうになると、そのときだけは烈火のごとく怒る。
結果、鬼は
「神は愛しかないかただなあ」
といふ結論に至つた。
この寓話を聞きながら、私は、
「鬼といふのは、私の中の『正直さ』のことだな」
といふ気がする。
それが鬼なら、我々は自分の中に鬼を養つたほうがいゝし、失つてはいけないと思ふ。
鬼はどうして初め、神を嫌ひだつたのか。その理由は分からないが、重要なのは、「神が嫌ひ」といふ自分の感覚をそのまゝ素直に受け入れてゐることです。
神がもしも「絶対善の本体」であると考へるなら、その神を嫌ふのは、嫌ふ人のほうがおかしいに決まつてゐる。だから、「神は善である」といふ概念を大切に生きる人は、「神が嫌ひ」といふ自分の感覚を受け入れることができないはずです。
さう考へると、「私は神が嫌ひだ」といふ感覚を素直に受け入れた鬼は偉いなと思ふ。この鬼のやうに、我々はもつと自分の感覚を素直に認めたほうがいゝ。しかし概念の人は、この感覚を認めたくなくて、必死に抑へ込まうとする。実は、私もさういふ人間のひとりです。
ところで、鬼の本当の偉さは、こゝにあるのではない。本当の偉さは、神を試したところにあるのです。
今の自分は神が嫌ひだけど、この感覚はこのまゝでいゝのかと、鬼は自問した。そして、それを確認するために、神を試さうと考へたのです。
意地悪をしてみて、それで怒るくらゐの神なら、「神が嫌ひ」といふ自分の感覚は正しい。さう考へて差し支へあるまい。その前提でいろいろな意地悪をしてみた。ところが、やつてもやつても、神は一向に怒らない。
それで、
「神つて、結構いゝ奴ぢやん」
といふ結論になつた。
「かういふ神なら、私は好きだ」
といふ気持ちに変はつたのです。
すると、この「神が好き」といふ感覚も、偽らざる自分の正直な感覚です。誰か他の人から押しつけられた既成の概念ではない。
このやうに、自分のありのまゝの感覚を大切にし、それをきちんと確認して生きるのが鬼の性質であるとするなら、さういふ鬼は、自分の中で大切に養ふべきだと思ふのです。

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