私はすべてを受け入れる
神は何でも「受け入れる」。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。 (『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
存在するものは、どんなものでもすべて受け入れる。それが神の性稟のやうです。本当でせうか。
存在するものを受け入れることを「肯定」、受け入れないことを「否定」とすれば、我々の態度にはどんな場合も「肯定」か「否定」かの二択しかないことになります。我々は神のやうに「何でもすべてを受け入れる」ことは難しいでせう。それなら、どんなものを「肯定」し、どんなものを「否定」しながら生きてゐるか。
例へば、保守を自認する人は、リベラルとか左派を否定する。考へ方が相容れないので、自分の生活空間にも思考空間にも入つてきてほしくない。無縁で生きたい。そのために、ことあるごとに批判するやうになります。
すると、この世界全体の中で、その人の生存空間はリベラルや左派を除いた残りの部分だけといふことになります。保守とリベラルが仮に半々だとすれば、その人は世界の半分を否定し、残り半分の世界で生きる人になる。
思想的な肯定・否定だけではない。
「かういふ趣味の人は嫌ひだ」
と言へば、その人たちも私の世界から排除されます。
もちろん、人だけでもない。
「かういふ匂ひ、かういふ味は嫌ひだ」
と言へば、それらも私の世界から排除され、より限定された環境で生きるしかなくなります。
そのやうに否定すればするほど、その人の生きる世界は狭くなる。
神はさういふ生き方をしたくないから、すべてを受け入れる者にならうとされるのでせう。否定するものがなければ、あらゆるものが神の世界には存在できる。極端に言へば、我々が「悪」と考へるものでさへ、神の中では存在できる。
かういふ神観は、キリスト教でも原理でも受け入れがたいでせうね。それらは「神は絶対善である」と考へるので、悪は戦争をしてでも徹底して排除しなければなりません。
しかし、さういふ対立・闘争が嫌なら、
「神はすべてを受け入れる方である」
といふ神自身の自己定義を受け入れてみませう。
すると、神に似るべき我々も、「すべてを受け入れる者」になるしかありません。
そもそも、神にはない「否定する」といふ性質が、どうして我々にはあるのでせうか。これを考へていくと、一つの深刻な事実に行き当たります。
それは、
「私は自分自身をまるごと受け入れることができてゐない」
つまり、
「私が自分自身を否定してゐる」
といふ事実です。
神が「私はすべてを受け入れる」と言はれるのは、多分、ご自分を受け入れ、一切否定しておられないからに違ひない。
考へてみると、私が誰かを受け入れられないのは、その人自体のせいではない。実は、さういふ人を嫌ふ私自身の要素を受け入れられてゐないからなのです。
言ひ方を変へてみませう。
私が誰かを何らかの理由で嫌ふとき、その理由は私の内にあるのであつて、相手にあるのではない。
例へば、私がその人を嫌ふのは、その人の考へ方が嫌だからだとしませう。といふことは、私がその考へ方を嫌でなくなれば、その人を嫌ふこともなくなるはずです。
その人の考へ方は何ら変はらない。ただ私の「嫌ひ」を受け入れれば、その人は嫌ひな人から好きな人に変はる。すると、それまでは私の世界から排除されてゐたその人が、あつといふ間に、私の世界に存在できるやうになるではないですか。
私の中にある「かういふものは嫌ひで、受け入れられない」といふ要素を手放す。さうすれば、否定が減つて肯定が増え、私の世界はどんどん広がる。そして、神に近づいて行く。

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