それは虐待です
昨秋から母の介護を動画にしてYoutubeにアップしてゐるのですが、先日、動画のひとつにかういふコメントがつきました。
こういうのやめてくれないかしら? 世界では虐待とよびます。 |
「虐待」といふ言葉を見た瞬間、ドキリとしました。
「私が一体いつ、どんなふうに、てつこさんを虐待したのだらうか?」
と、不意を突かれたやうな気がしたのです。
動画は、「ぐるぐる動き回る」といふタイトル。早朝に不穏な声が聞こえてくるので覗いてみると、てつこさんが布団をはだけ、ベッドの上でぐるぐる動き回つてゐる。少し興奮気味だつたので落ち着かせ、布団の中に入れて、しばらく様子を見るといふ単純な内容です。
てつこさんの様子を見た瞬間、
「あっ、これは動画になるな」
と閃いて、すぐにカメラを回し始めた。
「そんな暇があるなら、カメラで撮る前に、可哀さうなお母さんをすぐに何とかしろよ」
といふ非難がきても、仕方ないなとは思ふ。
さういふ態度を「虐待」と言はれるなら、その非難は甘んじて受けるにやぶさかではない。しかし、むしろありがたいのは、この一言のコメントが私の介護を改めて見つめ直すきつかけになつたことです。
このタイミングで、ちやうど今手に取つて読んでゐるのが『身体にきく 「体癖」を活かす整体術』(片山洋次郎)です。
整体師である片山氏によると、整体のコツは整体師と患者とが適当な距離で「響き合ふ」ことだといふ。整体師のほうに「この人を治してやる」といふ意識が強すぎると、患者は却つて圧迫感を受けて硬くなる。体の歪みを無理やり元に戻すより、その歪みをむしろぎりぎりまで押して、そこから自然に揺り戻す動きを促す。患者自身が持つてゐる本来の力を引き出すのがいゝといふのです。
だから介護についても、適切な距離感で接するのがいゝといふ。家族が介護する場合、もちろん治療はできない。家族にできる最もよい役割は「心の集注(集中)」だといふのです。
完璧に介護しようと頑張るのではなく、要介護者のそばにゐることで、生きてゐる身体同士の間に生じる「共鳴」のやうなものが、一番の安心の元になる。逆に言へば、それ以上のものは要らない。
この解説は、私の体験から、何となく分かるやうな気がします。
介護の完璧を目指すと、介護者が早晩壊れる。そればかりか、要介護者のほうも、場合によつては、圧迫を受けて苦しくなる。だから、両者の間の最も適切な距離を探ることが重要な気がするのです。
さういふ距離感を探りながらきてみると、初めの頃はてつこさんの目が見えなくなることを不憫に思つたが、今は特に同情しない。不便を補はうとするだけです。
起き上がらせるのが難しくなつてくると、排尿排便はできるだけオムツに任せる。食事もあまり凝らず、喜んでくれる限り、似たやうなメニューを続ける。
あの早朝のやうな出来事もたまに起こるけれど、夜中はよほどのことがない限り、わざわざ起きてまで見に行かない。それを「虐待」といふなら、「言はば言へ」といふ思ひもあります。
つまり、あんまり頑張り過ぎない。ただし、世話ができる範囲では、なるべく喜んでやつてあげる。食事のときは、なにくれとなく話しかけ、「おいしい」と言へば、「喜んでくれて嬉しい」と応答する。気分が良くて歌を歌ひ出せば、一緒になつて歌ふ。
こちらが喜んでやつてあげないと、てつこさんも心が苦しいと思ふのです。
「介護してやつてる」
といふ、押しつけがましい気持ちにはなりたくない。
介護されるほうも、
「世話になるのは心苦しいけど、世話になるしかない」
といふ、何か身の置き所のないやうな気持ちになれば、幸せな要介護者生活にはならないと思ふのです。

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