娘がすごく甘えてくるんです
先日、知り合ひの婦人と話してゐると、娘が妊娠中だといふ。
「初孫になりますか。無事に生まれるといゝですね」
と言ふと、その婦人は少し眉を曇らせて、
「つわりがひどくて、仕事も休んで、今家に帰つてきてるんですが、すごく甘えるんです」
と言ふ。
体がしんどいから、背中をさすつてほしいとか、あれしてほしい、これほしいと、しきりにねだつてくる。
「つわりは大変でせうから、それくらゐしてあげたらいゝぢやないですか」
と、少し怪訝に思ひながら言ふと、彼女は自分が妊娠したときのことを思ひ出すのだと言ふのです。
自分は子どもの頃から、あまり母親に甘えた記憶がない。少し厳しいお母さんだつた。だから妊娠したときも、できるだけ母親には頼らないようにして、我慢しながら頑張つた。
「でも、娘の態度を見ながら、『あゝ、私も本当はこんなふうに、もつと母親に甘えたかつたのかなあ』と思つたんです」
娘が甘えてくるのが嫌だと言ふわけではないものゝ、何だかさみしい気がすると言ふのです。その話を聞きながら、私にも少し似たところがあるなと思ふ。
私の場合、父親とあまり親密な関係になれなかつた。厳しいタイプではなかつたのに、なぜか心に距離があつて、腹を割つて話した記憶はほとんどない。
ところが、私の息子はものすごく私に甘えてくるタイプだつたのです。私はどちらかといふとドライなタイプなので、あまり甘えられすぎると煩はしい気持ちになつたりするのですが、息子はお構いなしです。
高校を卒業するまで、ほとんど私と同じ布団で寝てきたし、風呂にだつて一緒に入つてきた。こんなことは一度たりとも私の父親にしたことはなかつたし、さういふ発想さへまつたくなかつた。
しかし私なりに考へると、それは彼が甘えたくて甘えてくるといふより、むしろ親のことを考へて「甘えられること」を体験させようとしてゐたやうな気がする。だから、気持ちの上では、親子関係が逆転してゐたと言つてもいゝくらゐです。
私は父親との関係で、あまり濃厚な親子関係を体験できなかつたが、息子のお蔭で、遅ればせながらそれを存分に味はふことができた。あゝいふ息子がゐなかつたら、私は多分、濃密な親子関係を一度も体験しないまゝで人生を終はつてゐただらうと思ふ。
さういふことを考へると、人生といふのは何かを達成するとか、ひとかどの立派な人物になるなどといふのが目的ではない。「体験する」ことこそが、人生の主要な要素ではないかと思へるのです。
親子関係で言へば、子どもを生んできちんと育て、一人前にして社会に送り出すといふことが親の目的ではない。子どもが生まれ育つていく過程で、その段階ごとの掛け替へのない親子関係を体験し、存分に味はふ。それが親子関係の意味、人生の意味ではないかといふ気がする。
だからその婦人にも、
「何も、さみしがるやうなことぢやないでせう。さういふ娘さんでよかつたと喜んだらいゝだけのことだと思ふ」
と話したのです。
自分は娘の立場で味はへなかつたけれど、母親の立場で遅ればせながら、補足的に「甘える親子関係」を体験できた。さういふ娘さんが自分から生まれて、本当によかつた。さう考へると、ありがたい体験だと言へます。
でも実際には、自分の過去を振り返つて、「さみしい」と感じた。その気持ちは、一体どこから来るのか。
それは言ふまでもない。過去の記憶から来るのでせう。だから「さみしい」と感じるのは仕方ないのですが、かと言つて、必要な感情ではない。
それで、この感情は一旦「さうだな。さみしいんだな」と味はつた上で、潔く手放す。過去への囚はれから自分を解放し、「今」にフォーカスします。「今」とは、娘から甘えられてゐるといふ体験そのものです。そして、その体験がもたらす感情を存分に堪能します。
それが生力要素といふ栄養素を作り出し、霊人体を育てることになるのではないでせうか。何かを達成することで生力要素が作り出されるのではないと思ふ。

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