質問はあるが、答へはない
本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。僕は本当にそうだと思う。ベルグソンもそう言っていますね。僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。 (『学生との対話』小林秀雄) |
昭和49年(1974年)に、小林は鹿児島で学生相手の講義を行なひ、そのあとの質疑応答で、冒頭のやうな答へをしてゐます。このとき、小林は72歳。その歳にはもう少しある私も、最近しみじみ「本当にさうだなあ」と思ふことがしばしばあるのです。
人生のさまざまな問題に対して、
「これは一体どうしてだ?」
と、訊くことはできる。
しかし、答へを出すことはできないし、また、出す必要もない。
22年前、私の妻が42歳の若さで早世したあと、繰り返し
「これは一体どうしてだ?」
といふ質問をして、答へを得ようとしました。
あるときには、あの世からの妻の声を届けてくれた人もある。しかしそれを聞いて、私には恐れが生じた。
「本当に、さうなのだらうか?」
と思ふが、本当か嘘か分からない。
目に見えないことだし、確証はないのです。
その後も、ときどき思ひ出したやうに同じ質問をすることがあつたが、答へは闇の中です。
それでも長い間、答へはあるはずだと思つてゐた。あるけれども、容易に見出すことができないのだと。
しかし最近は、
「これと一つに決まつた答へなど、ないのではないか」
と思うやうになつたのです。
言つてみれば、
「この世に、質問はあるけれど、答へはない」。
我々は量子の世界に生きてゐるのだと思ふ。
量子力学を学んでみると、量子の世界は不可思議な世界のやうです。
その学問の権威のやうな学者でさへ
「私には量子の世界がまつたく分かつてゐない。諸君も、私の講義を聞いて量子のことが分かるなどと、決して期待してはいけない」
と言つてゐます。
その世界は、可能性の世界です。「かうでもある」と「あゝでもある」が、同時に、重ね合はされたやうに存在してゐる。ところが、観察者がそれを観察(意識)し始めた途端、一つの事実に凝縮するのです。無限(可能性)が有限(一つ)に姿を変へるのです。しかし観察をやめたら、その瞬間に、再び無限に戻る。
さういふ量子によつて出来上がつた世界に、我々は生きてゐる。いや、我々自身だつて、量子からできてゐる。
さうすると、この世界も我々自身も、本質は無限なのですが、意識があるゆゑに、「ひとつしかない」と思へる現実を目の当たりにしながら生きてゐるのです。そして、この「ひとつしかない」と思へる現実を、過去に発した質問に対する「答へ」だと思つてゐる。
しかし実は、目の前の現実は「答へ」ではなく、新しい「質問」なのではないか。つまり、「今日」は「昨日」の質問に対する答へではなく、新しく発する質問が「今日」といふ現実を創り出してゐる。
さう考へると、つねに「答へ」はない。あるのは新しい「質問」だけです。つまり、私の人生にはどこまで行つても「答へ」はなく、「質問」だけが繰り返される。
いつも「質問」といふ可能性だけがあり、一つに凝縮した「答へ」はない。これがまさに、「量子的人生」ではないだらうか。
さうすると、その人生で重要なことは、たつた一つの最適解を求めることではない。小林が言ふやうに、「正しく訊く」ことなのです。「うまく訊く」と言つたほうがいゝかもしれない。
否定的に訊かない。
妬みをもつて訊かない。
恨みをもつて訊かない。

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